第七十三話 赤い札、語られる
初夏の朝、韓の都・新鄭の広場に人が集まりはじめていた。石畳の中央には簡素な木の舞台、その脇には赤い布で飾られた屋台が設けられている。風に揺れる垂れ幕には、こう記されていた。
「赤き札、語られる」
物見高い者たちが足を止め、さらに人が人を呼び、やがて広場はざわめきに満ちる。
舞台に上がったのは郦食其。赤い布の羽織をまとい、ゆっくりと群衆を見渡した。その顔には緊張と覚悟が同居していた。
「みな、聞いてくれ」
声は大きくなかったが、不思議と広場に響いた。郦の背後では、赤い紙が風に舞っている。白ではない。それは、あの日、呂明が示した“赤い商券”と同じ色だった。
「今から語るのは、ここに暮らす者たちの話だ。金持ちや役人ではない、俺たちと同じ、苦しむ民の話だ」
そう言って彼が最初に語ったのは、ある農夫の話だった。
季節ごとの作物に税が課され、白衣房から借金をせざるを得なくなった。土地を担保に借りた白い札。表には「豊作の備え」と書かれていたが、裏には利息と罰則が小さく記されていた。
数年後、その農夫は土地を失い、家族と共に野に捨てられたという。
「その白い札は、救いだったのか? それとも……」
郦の問いに、広場の端で老農が目を細めた。彼の顔には深い皺が刻まれている。何かを思い出したように、口を結ぶ。
次に語られたのは、若い娘の話だった。母を病で亡くし、埋葬費用のために白衣房に駆け込んだ。白い札を手に入れた代償に、彼女は自らの髪と、次の三年分の労働を差し出した。
「彼女はこう言った。“白い札は冷たい。まるで、母の遺体に触れたときのように”と……」
この言葉に、広場のあちこちで静かな息を呑む音が広がった。子どもを抱いた母親が、思わずわが子を抱き締める。若い男が眉を寄せ、そっと拳を握る。目を伏せた老婆の頬に、涙がひと筋こぼれ落ちた。
郦は間を置いて、静かに続ける。
「だがな、俺たちは知るべきなんだ。“札”に何が書かれているのかを。誰が書いたのかを。そして、それを誰が読めるのかを」
言葉と共に、赤い札が舞台から配られる。それはただの紙切れ。しかしそこには大きな文字で、こう書かれている。
『これは商いだ。お前が選ぶ権利がある』
民たちはその文字を見つめる。指でなぞる者、口ずさむ者、眉をしかめる者。ある者は近くの者にそっと読み方を尋ね、またある者は「ほんとに……選んでいいのか」とつぶやいた。
郦が叫ぶ。
「赤い札は、お前たちの手にある! 白衣房の札と、どちらを選ぶかは、お前たち自身が決められる!」
その瞬間、広場を覆っていた空気が変わった。呆然とする者、顔を覆って泣く者、小さく頷く者。怒りではない。悲しみでもない。かすかだが、確かに芽生えた意思の光が、群衆の中にともる。
呂明はその様子を、屋台の陰から見つめていた。
「……始まったな」
隣にいた白玲が問う。
「これは、ただの札ではありませんね」
「ああ。これは“語り”だ。言葉の力で、信じる力を育てる商いだ」
それは、王綰が与えた“重さ”に抗う、ささやかな“選択”だった。
その夜。語りの噂は、宿屋、路地裏、市場、そして酒場と、静かに広がっていった。
そして──
都の外れにある、質素な書斎。その男は、赤い札を静かに手に取った。
目を細め、口元に微かな笑みを浮かべる。
「……言葉の商い、か。面白い。まさか、あの若造がここまで考えるとは」
男の傍らには、古びた竹簡と『管子』の写しが積まれていた。
──かつて呂明に思考と理念の種を授けた、あの「語り部」の姿がそこにあった。
そして、男は筆を取り、ひとつの言葉を記す。
『見るに値する』




