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神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第五章 落日余光編
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閑話 言葉の重さ

日の本の民も他人事とは思えません。

 冬の終わりを告げる冷たい風が、市場の露店を吹き抜けていく。だが、寒さ以上に、人々の顔にはどこか張りつめた影があった。


 呂明は、郦食其と並んで歩きながら、町の小路をゆっくりと巡っていた。


「ここから先は、言葉の仕事だ」


 その一言に、郦はわずかに眉をひそめた。


「言葉の仕事……?」


「物や金を動かすのは、確かに我らの商いだ。だが、それだけじゃない。人の心が動かなければ、何も始まらない。つまり——言葉で動かすのさ」


 立ち止まった呂明の視線の先には、値切り合いをする男たち、無言で座る老女、空腹を隠せぬまま母の手を引く子どもたちの姿があった。


「韓の民は疲れている。暮らしは厳しく、負担は増す一方だ。枡の大きさが変わり、税の仕組みも違う。説明もなく、納得もないまま、ただ“従え”と命じられる」


 呂明は吐き出すように言葉を続けた。


「分かるか? 重さは、銭や物だけじゃない。“理解できない”という重さ、“選べない”という重さが、人を押し潰すんだ」


 郦は目を伏せた。


「それを“言葉”で拭えと?」


「そうじゃない。拭うことはできなくても、“伝える”ことはできる。今、何が起きているのか。誰が何をしているのか。そして、その裏にどんな思惑があるのか……誰かが言葉にせねば、民は永遠に黙らされたままだ」


 呂明の言葉に、郦は静かにうなずいた。


「なるほど……ならば、私の言葉で、“重さ”の形を描いてみましょう」


 その日、郦はひとりで町に出た。市井に座り、食堂に入り、宿で話を聞いた。


 そして夕刻、木簡を数枚携えて戻ってきた。


「拾ってきました。泣き言も、怒りも、呆れも……そして、わずかな希望も」


 呂明がうなずくと、郦は一枚ずつ読み上げた。


「『年貢が昨年より増えた。計算が分からぬ。役人に尋ねたが、“そう決まった”としか言わぬ』」


「『働いても働いても、銭が残らぬ。なのに“枡が変わったから”と納め直せと言われた』」


「『子が病を患ったが、医者にも金が要る。借りるしかなかった。白い札は便利だが、利子が怖い』」


 呂明は黙って聞いていた。


 どの言葉にも、数字では測れぬ“重さ”があった。


 そして、郦が最後に読み上げた。


「『呂という商人の者、聞けば“民のため”と語るらしい。だが、誰も信じてはいない。何を信じていいか分からぬのだ』」


 郦は呟くように言った。


「これが、今の“空気”です。怒りでも、憎しみでもなく、ただ……疑いと諦め」


 呂明は目を閉じ、小さく息を吐いた。


「ならば、その空気ごと書き記せ。“言葉”という風を起こせ。誰かが言わねば、空気は淀むだけだ」


 郦は深く頭を下げた。


「承知しました、“商隊長”」


 その日、呂明は思い知った。重さとは、物の質量だけではない。言葉には、人の心に染み込む“重み”があるのだと。

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