閑話 言葉の重さ
日の本の民も他人事とは思えません。
冬の終わりを告げる冷たい風が、市場の露店を吹き抜けていく。だが、寒さ以上に、人々の顔にはどこか張りつめた影があった。
呂明は、郦食其と並んで歩きながら、町の小路をゆっくりと巡っていた。
「ここから先は、言葉の仕事だ」
その一言に、郦はわずかに眉をひそめた。
「言葉の仕事……?」
「物や金を動かすのは、確かに我らの商いだ。だが、それだけじゃない。人の心が動かなければ、何も始まらない。つまり——言葉で動かすのさ」
立ち止まった呂明の視線の先には、値切り合いをする男たち、無言で座る老女、空腹を隠せぬまま母の手を引く子どもたちの姿があった。
「韓の民は疲れている。暮らしは厳しく、負担は増す一方だ。枡の大きさが変わり、税の仕組みも違う。説明もなく、納得もないまま、ただ“従え”と命じられる」
呂明は吐き出すように言葉を続けた。
「分かるか? 重さは、銭や物だけじゃない。“理解できない”という重さ、“選べない”という重さが、人を押し潰すんだ」
郦は目を伏せた。
「それを“言葉”で拭えと?」
「そうじゃない。拭うことはできなくても、“伝える”ことはできる。今、何が起きているのか。誰が何をしているのか。そして、その裏にどんな思惑があるのか……誰かが言葉にせねば、民は永遠に黙らされたままだ」
呂明の言葉に、郦は静かにうなずいた。
「なるほど……ならば、私の言葉で、“重さ”の形を描いてみましょう」
その日、郦はひとりで町に出た。市井に座り、食堂に入り、宿で話を聞いた。
そして夕刻、木簡を数枚携えて戻ってきた。
「拾ってきました。泣き言も、怒りも、呆れも……そして、わずかな希望も」
呂明がうなずくと、郦は一枚ずつ読み上げた。
「『年貢が昨年より増えた。計算が分からぬ。役人に尋ねたが、“そう決まった”としか言わぬ』」
「『働いても働いても、銭が残らぬ。なのに“枡が変わったから”と納め直せと言われた』」
「『子が病を患ったが、医者にも金が要る。借りるしかなかった。白い札は便利だが、利子が怖い』」
呂明は黙って聞いていた。
どの言葉にも、数字では測れぬ“重さ”があった。
そして、郦が最後に読み上げた。
「『呂という商人の者、聞けば“民のため”と語るらしい。だが、誰も信じてはいない。何を信じていいか分からぬのだ』」
郦は呟くように言った。
「これが、今の“空気”です。怒りでも、憎しみでもなく、ただ……疑いと諦め」
呂明は目を閉じ、小さく息を吐いた。
「ならば、その空気ごと書き記せ。“言葉”という風を起こせ。誰かが言わねば、空気は淀むだけだ」
郦は深く頭を下げた。
「承知しました、“商隊長”」
その日、呂明は思い知った。重さとは、物の質量だけではない。言葉には、人の心に染み込む“重み”があるのだと。




