第七十一話 言葉の商隊
呂明は、郦食其と並んで歩きながら、民の暮らす町の小路を巡っていた。
「ここから先は、言葉の仕事だ」
そう告げると、郦はわずかに眉をひそめた。
「言葉の仕事……?」
「我々の商いが、市場や貨幣を扱うだけだと思っているなら、それはまだ半分だ。人の心が動かなければ、金は流れない。つまり——言葉で動かすのさ」
立ち止まった呂明は、目の前の広場を見渡した。屋台が連なり、客が値段を巡って声を張り上げている。だがその背後には、不安げな眼差しで立ち尽くす老女、ぼろを纏った子どもたちの姿もあった。
「韓は揺れている。民は、明日を信じられなくなっている。だからこそ、必要なんだ。『語り部』が」
「……つまり、わたしに“民の声”を拾えと?」
「それだけじゃない」
呂明は郦の顔をまっすぐに見つめた。
「民に『語りかける』のだ。秦の商人は何をしているのか、なぜ街に変化が生まれたのか。そして、お前自身の目で見て、聞いて、感じたことを“言葉”にするんだ」
郦食其はしばし黙し、やがてふっと笑った。
「なるほど。そういう意味なら、少しばかり得意分野だ。――では、まずどこへ?」
「好きに歩け。市場でも、宿でも、酒場でも。人の多い場所ならどこでもいい」
郦は草衣の裾を払い、道端の子どもたちに話しかけながら去っていった。呂明はその背を見送りつつ、小さく呟いた。
「“ 草のように踏まれ、声も上げぬ民の声”を伝える者……郦食其。やはり只者じゃない」
その日の夕刻、郦は戻ってきた。手には粗末な木簡が数枚握られていた。
「早速試してみた。五十を超える声を拾った。商いの品目、売れ行き、噂話、そして……恨み言。読みますか?」
彼が差し出した木簡には、肉筆でびっしりと記されていた。
呂明がうなずくと、郦は一枚目を読み上げた。
「『昨年は米の値が倍に跳ねたが、今は落ち着いている。秦の商人が買い支えていると聞いた。あの者たちは敵なのか、味方なのか』」
次の一枚。
「『市場で銀貨が使えるようになった。最初は戸惑ったが、最近は便利だと思うようになった』」
そして最後の一枚には、こんな言葉が記されていた。
「見ろ。これは借金に関するものだ」
呂明は一枚の木簡を抜き取り、目を走らせた。そこには、銭十貫を借りて返せず、父祖の墓所を売り払った者の記録がある。
「これは……いつの記録だ?」
「三日前。貸主は、最近現れた『白衣房』だ。高利にして、取り立ても厳しい。元は役人だったという噂もある」
呂明の眉がわずかに動く。
「王綰か……」
白玲が小声でつぶやく。呂明はうなずいた。
「うちの商会とは別口で、金貸しを始めていたか」
元韓の民は、秦の制度にまだ馴染めていなかった。法律や計量器具である「枡」の大きさ、年貢や納付の仕方などの違いにより、手取りの増減が生じていた。土地や戸籍の整理も追いつかず、正規の支援を得られぬ者が現れる。
そうした人々が、背に腹は代えられず、高利貸しに手を出す――当然の帰結だった。
「『高利貸しの連中はひどい。取り立てが厳しくて夜も眠れん。だが、あの“白い札”を使えば利子がいらぬらしい。使い方を誰か教えてくれんか』」
呂明は静かにうなずいた。
「それでいい。数字では見えない“変化”が、そこにある。お前の目と耳は、民の内側を映している」
「ただの落書きです」
「いいや、それは“言葉の金”だ」
そのとき、白玲が現れて言った。
「呂明、先ほどの高利貸しの件ですが、王綰が裏で動かしている可能性が濃いです。どうします?」
呂明は少し考え、微笑を浮かべた。
「いや、泳がせておこう。いずれ“憎しみ”が募れば、民は叩く先を探す。そのとき、我々の策は映える」
「民の怒りを“導く”んですね」
「民衆を扇動するんじゃない。“見せる”だけでいい。我々が何をしているか、どちらが本当に民のためか、それを“言葉”で伝えるんだ。郦、頼んだぞ」
郦食其はゆっくりと頭を下げた。
「承知しました、“商隊長”殿」
その日、呂明はまた一つ、“言葉”という武器を手に入れたのだった。
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