第七十話 草衣の男
韓の地へと続く道は、山脈を抜け、肥沃な盆地に至る。
洛陽から南東へ数日、呂明は再び交易隊と合流し、旧韓領の玄関口である平輿に入った。
かつて軍事拠点であったこの地は、今や秦の城郭が整備され、周囲には新興の市場が生まれている。呂明の組織が手がけた金融業務の拠点も、小さな屋敷として佇んでいた。
だが、呂明の視線は市場の喧騒よりも、その周縁に集う者たちへと向いていた。
──物乞い、日雇い、流れ者。
秦の制度が持ち込まれ、表面上の秩序は保たれている。だが、職もなく、流通に取り残された者たちの群れは、都市の外縁でうごめいていた。
その中に、一際異質な男がいた。
粗末な草衣。ほつれた髪。痩せた顔に乱れた髭──一見すれば、ただの風狂人に過ぎない。
だが、その男の目が、呂明の目を引いた。
風に乱れた髪の隙間から覗く瞳は、驚くほど澄んでいた。
冷静でいて、どこか獣じみた警戒と、飢えたような知性を秘めている。
──この光は、かつて見たことがある。
呂明の脳裏に、かすかな既視感がよぎった。
目の奥に宿る、執念と信念が綯い交ぜになった光。
それは、かつて父呂不韋の館で食客として出会った頃の若かりし李斯。あの男もあのような目をしていたか。
だが、どこか違う。
李斯が抱えていたのは、這い上がる者の冷たい執着だった。
この男の目には、それとは違う、名状しがたい熱がある。
呂明は無意識に一歩、男へと歩み寄っていた。
「名は?」
「郦 食其と申す。食に困ってこの地をうろついていたが、なにやら言いたいことが胸に溜まってのう」
呂明は頷いた。
「言ってみろ」
「秦は市場を与えた。だが、それに乗れるのは、元から財を持っていた者ばかりじゃ。貧しき者には、ただルールが変わっただけ。選択肢など、何一つ増えておらぬ」
呂明は目を細めた。
痩せた顔に乱れた髭、肩のほつれた布衣──その風貌は一見、路傍の語り人にしか見えない。
だがその言葉は、現場に根ざし、そして制度を見抜いていた。
「……では、お前ならどうする」
郦食其は、にやりと笑った。
「まず、商に名を借りて金を流す。だが真に必要なのは、“言葉”じゃ。人は数字では動かぬ。口を借りるなら、腹の底から語る者でなければ、民の信は得られん」
呂明の瞳に、微かな驚きが浮かんだ。
──こいつは、只者ではない。
「郦 食其。お前を、この地の“商事代表”とする。交易の仕組みは後で教える。それよりも、お前の目で民を見ろ。声を聞け。そして、民の言葉を聞かせろ」
「……面白い。望むところじゃ」
そのやり取りを陰から見ていた白玲が、呆れたように肩をすくめる。
「また拾いましたね、主さま」
「光る石は、最初は泥にまみれているものだ」
呂明は笑った。
郦食其。その男は、後に“言葉の参謀”として歴史に名を刻む──今はまだ、名もなき草衣の男に過ぎない。
だが、韓という土壌に根を下ろすには、こうした人物こそが最良の種となる。
この時、呂明の韓攻略の第一歩は、静かに始まっていた。
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