表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第五章 落日余光編
73/143

第七十話 草衣の男

 韓の地へと続く道は、山脈を抜け、肥沃な盆地に至る。


 洛陽から南東へ数日、呂明は再び交易隊と合流し、旧韓領の玄関口である平輿へいよに入った。


 かつて軍事拠点であったこの地は、今や秦の城郭が整備され、周囲には新興の市場が生まれている。呂明の組織が手がけた金融業務の拠点も、小さな屋敷として佇んでいた。


 だが、呂明の視線は市場の喧騒よりも、その周縁に集う者たちへと向いていた。


 ──物乞い、日雇い、流れ者。


 秦の制度が持ち込まれ、表面上の秩序は保たれている。だが、職もなく、流通に取り残された者たちの群れは、都市の外縁でうごめいていた。


 その中に、一際異質な男がいた。


 粗末な草衣。ほつれた髪。痩せた顔に乱れた髭──一見すれば、ただの風狂人に過ぎない。


 だが、その男の目が、呂明の目を引いた。

 風に乱れた髪の隙間から覗く瞳は、驚くほど澄んでいた。

 冷静でいて、どこか獣じみた警戒と、飢えたような知性を秘めている。


 ──この光は、かつて見たことがある。


 呂明の脳裏に、かすかな既視感がよぎった。

 目の奥に宿る、執念と信念が綯い交ぜになった光。

 それは、かつて父呂不韋の館で食客として出会った頃の若かりし李斯。あの男もあのような目をしていたか。


 だが、どこか違う。

 李斯が抱えていたのは、這い上がる者の冷たい執着だった。

 この男の目には、それとは違う、名状しがたい熱がある。


 呂明は無意識に一歩、男へと歩み寄っていた。


「名は?」


「郦 食其り・しょくきと申す。食に困ってこの地をうろついていたが、なにやら言いたいことが胸に溜まってのう」


 呂明は頷いた。


「言ってみろ」


「秦は市場を与えた。だが、それに乗れるのは、元から財を持っていた者ばかりじゃ。貧しき者には、ただルールが変わっただけ。選択肢など、何一つ増えておらぬ」


 呂明は目を細めた。


 痩せた顔に乱れた髭、肩のほつれた布衣──その風貌は一見、路傍の語り人にしか見えない。

 だがその言葉は、現場に根ざし、そして制度を見抜いていた。


「……では、お前ならどうする」


 郦食其は、にやりと笑った。


「まず、商に名を借りて金を流す。だが真に必要なのは、“言葉”じゃ。人は数字では動かぬ。口を借りるなら、腹の底から語る者でなければ、民の信は得られん」


 呂明の瞳に、微かな驚きが浮かんだ。


 ──こいつは、只者ではない。


「郦 食其。お前を、この地の“商事代表”とする。交易の仕組みは後で教える。それよりも、お前の目で民を見ろ。声を聞け。そして、民の言葉を聞かせろ」


「……面白い。望むところじゃ」


 そのやり取りを陰から見ていた白玲が、呆れたように肩をすくめる。


「また拾いましたね、主さま」


「光る石は、最初は泥にまみれているものだ」


 呂明は笑った。


 郦食其。その男は、後に“言葉の参謀”として歴史に名を刻む──今はまだ、名もなき草衣の男に過ぎない。


 だが、韓という土壌に根を下ろすには、こうした人物こそが最良の種となる。


 この時、呂明の韓攻略の第一歩は、静かに始まっていた。


数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。


気が向きましたらブックマークやイイネをお願いします。

また気に入ってくださいましたら評価★★★★★を宜しくお願い致します。


執筆のモチベーションが大いに高まります!



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ