第六十八話 時は流れて
時が流れた。
呂不韋の訃報から、はや数年。
咸陽の冬の冷たさも、かつてより幾分か和らいで感じられるのは、呂明自身の心境が変わったからかもしれなかった。
漢中は、確実に育っていた。
市場は賑わい、銅鉱山と製錬の技術が融合し、秦本土とは異なる経済圏を築きつつある。
西涼から届く馬や塩、絨織物は、東へと流れ、関中の貴族たちを唸らせた。
「李斯殿より通達。西域との交易記録を王府に報告するように、とのことです」
杜青の報告に、呂明は頷いた。
「やはり李斯は見ている……我らがただの商人ではないと、認識しているな」
かつて、黙認と引き換えに中央への利益供出を約した交渉は、李斯との力比べでもあった。
だが今や、その関係も変わりつつある。
漢中の経済力が無視できぬものとなり、咸陽の政策にも影響を与え始めていた。
それでも、呂明には焦りがあった。
国内での商業的地盤は広がり、技術と人材も育ってきた。
だが、戦の気配が、再び色濃く漂い始めているのを、彼は感じていた。
――次に秦が狙うのは、韓だ。
それは、嬴政の拡張政策の流れとして当然の帰結だった。
地勢的にも、韓は秦にとって喉元を塞ぐ小骨のような存在。
呂明はすでに、趙へ伸びる交易路の布石として、韓の地――特に首都・新鄭の動向を探っていた。
「李斯から、直接の依頼があった」
陳咸の報告に、呂明は視線を向けた。
「『韓の地における士人・商人の動き、および国情を探ること』。理由は明示されていないが、おそらく……征服の後を見据えているのだろう」
「つまり我らに、“戦の後”の準備をせよと?」
「……そうだな。表向きは商いでも、実態は地ならし。これまでと変わらぬ、だがより政治的な任務だ」
呂明は地図を広げ、新鄭の位置を指でなぞった。
韓は、儒・墨・法・名と多様な学派を抱える地でもある。
なかでも、法家の士人・韓非の名は、秦でも耳にする機会が増えていた。
「思想が、国を作る時代になりつつある。戦で勝っても、人を治めねば意味がない。嬴政も李斯も、それを理解している。だからこそ、あの男の名が出てくるのだ」
「韓非……」
白玲がぽつりと呟いた。
「李斯と同門だったと聞きます。ならば、その接触を試みるということですか?」
「いや……その役目は我々ではない。むしろ――」
呂明の声が、ふと低くなる。
「学問の地・洛陽で、一つの風聞を聞いた。『異才の士が再び現れ、韓非と語らっている』と。
それが何者かは知らぬが……もしかすると、“火に消えぬ意思”がまだどこかに残っているのかもしれない」
その言葉に、誰もが言葉を失った。
呂明の脳裏には、あの夜、焦げた文書を抱きしめた記憶がよぎっていた。
「洛陽を訪ねよう。商圏の接点を探るついでに、学問所を回る。
もし、彼がそこにいるのなら――もう一度、話がしたい」
風が吹く。
咸陽の空に、春の兆しが微かに混じる。
呂明の歩む先に、再び歴史のうねりが迫っていた。
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