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神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第四章 興軍開商編
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【閑話】この小僧に、賭けてみるか

(廉頗side)


 荒れた地面に、血と土埃の匂いが漂っている。

 立ち上がろうと、何度も何度も、ボロボロの少年が這い寄ってくる。


 廉頗は腕を組み、じっとそれを見下ろしていた。


 ナイガル――この小僧は、戦える体でもない。

 それでも、泥まみれになりながら、必死にこちらへ向かって手を伸ばす。


(阿呆が)


 心の中で小さく呟く。

 だが、その目に宿った光――何かを、何としても掴もうとする光だけは、かつての己と重なって仕方なかった。


 若き日のことを思い出す。

 飢えた日々。

 貴族どもに叩き伏せられ、屈辱を浴びながら、それでも剣を手放さなかったあの頃。


「貴様ごときが将を目指すなど、笑止千万!」


 若き廉頗は、何度も何度も地に叩きつけられた。

 悔しさと、冷たい土の味だけが、あの時の己を支えていた。


 あの時。誰も、手を差し伸べてはくれなかった。


 今、ナイガルもまた、同じように誰にも頼れず、這い上がろうとしている。


 呻くような息遣い。

 血の混じった泥水を啜る音。

 微かに、石の割れる小さな音――掴みかけた拳が、また地に落ちた音。


(……似ているな)


 廉頗は、自分の胸の奥底に微かな痛みを感じた。


 もう、齢も重ねた。

 天下を掴むなどという大それた夢も、とうの昔に手放した。

 趙に裏切られ、捨てられ、名を汚されたあの日から、自分はただ「戦うだけの獣」だった。


 だが。


 そんな自分でも――いや、自分だからこそ。

 この小僧のような目に、何かを託したくなるのかもしれない。


 ナイガルが、また立ち上がる。

 膝を震わせ、血まみれの手で地面を押さえ、何度も、何度も。


 「……ほう」


 廉頗の口から、わずかに漏れた声は、誰にも聞こえなかった。

 強く閉ざしてきた心の奥底に、小さな火が灯るのを感じる。


 ──賭けてみるか。

 この小僧に。

 いや、もう一度、自分自身に。


 口元がわずかに緩んだ。

 それを誰にも気取られぬよう、廉頗はそっと腕を組み直す。


 ナイガルが、血だらけの顔を上げる。

 その瞳に宿った、消えない光を見て、廉頗は心の中でひとつだけ言葉を呟いた。


(倒れるなら、何度でも立ち上がれ。それだけだ、小僧)


 風が吹く。

 土の匂いと、戦場の熱気を孕んだ乾いた空気が、廉頗の白髪をわずかに揺らした。



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