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神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第四章 興軍開商編
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第五十九話 塩と馬

 童庵では、子供たちが食堂の仕事を覚え始め、作業場では鍛冶師たちが鉄具作りに取りかかっていた。

 安定の町は、目に見えて活気を帯びつつある。


 だが、呂明の目は、さらに遠くを見据えていた。


 ――交易路を支えるには、馬がいる。

 馬具がいる。騎兵がいる。


 童庵で育つ子供たちのうち、体格に恵まれた者たちは、将来、馬に乗せるつもりだった。

 そのためにも、遊牧民たちとの連携は避けて通れない。


 呂明は再び、北方の集落へ向かった。

 前回と違い、遊牧民たちはこちらを遠巻きに眺めるだけで、槍を向けてはこなかった。


 族長の幕舎で、再び向き合う。


「薬と塩、受け取ったか」


「ああ、確かに。……礼は言わんがな」


 族長は唇を歪めたが、その目にはわずかな柔らかさがあった。


 呂明は、率直に本題へ入った。


「本題だ。馬を譲ってほしい。俺たちは西へ進み、商いを広げようとしている。馬がなければ、それは叶わない」


「……馬が欲しいだけなら、金を積めばいい話だろう」


「違う」


 呂明は静かに首を振った。


「塩を長く、安定して供給する。お前たちは、馬を長く、安定して売る。どちらか一方ではなく、互いに生きるために結びつくんだ」


 族長の眉がぴくりと動く。


「塩は、貴重だ。だが、どこまで信用できるか分からん」


 呂明は、懐から布袋を取り出した。


 中には、童庵の作業場で試作させた、鉄製の小さな馬具が入っていた。


「俺たちは、こういう物も作れる。鞍、鐙、轡。馬を強く、速く、長く走らせる道具だ」


 族長は目を細め、手に取ってまじまじと見た。

 周囲の男たちも、興味深げに覗き込む。


「これを、お前たちに教えてもいい。技術ごとだ」


 その言葉に、ざわめきが起きた。


 塩だけではない。馬を強化する技術までも――。


 呂明は続ける。


「条件は一つ。俺たちが塩を持ってくるたび、馬を売れ。質の良い馬を。

 そして、互いに約束を破らないこと。どちらかが裏切れば、すべてを失うことになる」


 族長は黙り込んだ。


 幕舎の外では、子供たちの笑い声が微かに聞こえる。

 この過酷な地で、わずかな笑いが絶えることのないように――。


 呂明は待った。相手の答えを、急かさずに。


 やがて、族長は深く、長い息を吐いた。


「……お前たちが初めてだ。俺たちを仲間扱いしようとする秦人はな」


 顔を上げた族長の表情は、僅かに和らいでいた。


「いいだろう。塩と馬、そして技術。互いのために、手を結ぼう」


 呂明は静かに頷いた。


 族長の手が、呂明が差し出した酒盃にそっと伸びた。わずかに指先が震える。その表情には、驚きとも戸惑いともつかぬ微かな揺らぎがあった。


 「……仲間扱いしようとする漢人はな」


 つぶやいた声には、長い間、踏みつけにされてきた誇りが、ようやく顔を上げるかのような、抑えた熱が滲んでいた。


 幕舎の中には、一瞬、静寂が落ちた。

 座して見守っていた遊牧民たちは、族長と呂明のやり取りに身を乗り出し、緊張した面持ちで互いの表情を探っている。焚き火の煙が、緩やかに漂い、焦げた羊毛の匂いが鼻をかすめた。


 盃を傾けた族長が、ごくりと喉を鳴らす。

 その瞬間、周囲に張り詰めていた警戒が、かすかにほどけた。


 ――この交渉は、通った。


 呂明は確信した。

 目の前の男が、ただの交易ではない、「未来を共に築く仲間」として、一歩を踏み出したことを。


 「互いに誓おう。裏切れば、すべてを失う。しかし信じれば、共に強くなれる」


 呂明の言葉に、族長は低く笑った。

 それは、遠い草原の夜を思わせる、静かで力強い笑みだった。


 小さな信頼が、確かな契約に変わる。

 そして、それはやがて、西涼を揺るがす大きな力へと育っていくのだ。


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