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神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第四章 興軍開商編
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第五十八話 小さな信頼

 童庵と食堂の開設が順調に進み、安定の地に拠点を築きつつあった呂明は、次なる課題に取りかかろうとしていた。


 ――馬が、要る。


 広大な西涼の地を押さえるには、馬の確保は不可欠だった。そして、馬を持つ者たちは、漢人ではない。秦に従わぬ、草原の民たちである。


 呂明は数人の部下を連れ、町の北方に住まう遊牧民たちの集落へ向かった。


 小高い丘を越えた先に、簡素な幕舎がいくつも点在している。

 近づくと、子供たちが物陰からこちらを覗き、大人たちは警戒するように立ち上がった。


 呂明はゆっくりと馬を進めた。


(……この土地では、彼らもまた、生きるために必死なのだ)


 布地のほつれた幕舎、干からびた羊の骨、わずかに草を食む馬たち。

 その光景は、秦の都市に生きる民たちの豊かさとは対照的だった。


「俺たちは秦の役人ではない。呂家の者だ。取引を申し出に来た」


 呂明は周囲に聞こえるよう、はっきりと言葉を投げた。


 一際大きな幕舎から、髭をたくわえた壮年の男が現れる。族長だろう。

 男はじっと呂明を見据え、やがて口を開いた。


「……取引、だと?」


 声には露骨な不信が滲んでいる。


 無理もない。秦の支配は、彼らにとって重荷でしかなかった。重税、徴発、収奪。

 呂明はそのことを、報告だけではなく、目の前の現実として理解した。


「俺たちは塩を持っている。だが、馬が足りない。そちらには馬がある。互いに利を分かつために話をしたい」


 族長はじっと呂明を見つめたまま、答えなかった。

 周囲の男たちも、手に槍を握ったまま警戒を解かない。


 呂明は馬を降り、ゆっくりと歩み寄った。


「俺は、秦の役人どもと違う。お前たちの暮らしを奪う気はない。むしろ、助け合いたいと思っている」


 族長の眉がわずかに動いた。


 そのとき、ふと、幕舎の隙間から子供が顔を出した。

 腕には包帯が巻かれ、瘦せ細った手足を震わせている。


 呂明は、咄嗟にそちらへ視線を向けた。

 そして気づく。

 ――病人がいる。医薬も、食料も、足りていない。


「……お前たち、薬が必要だろう」


 族長は眉をひそめたが、否定しなかった。

 呂明は一度だけ深く息をつき、続けた。


「いいだろう。まずは塩と薬を渡す。取引の前払いだ」


 周囲にざわめきが広がる。警戒と困惑、そして――一抹の期待。


 族長は低く問うた。


「何の見返りもなく、か?」


「今は要らない。ただし、俺たちが再び訪れたとき、話を聞く場を設けろ。それで十分だ」


 長い沈黙の後、族長は静かに頷いた。


「……分かった」


 呂明は微笑んだ。


 まずは信頼を得ること。交渉ではない、人と人との結びつきを築くこと。

 それが、この地で生きるための第一歩なのだ。


 町へ戻った呂明は、すぐに白玲に命じて、薬と食料を届けさせた。

 わずかばかりの贈り物だったが、それは確かに、遊牧民たちの目に希望の光を灯した。


「これでいい」


 呂明は小さくつぶやく。


「まずは、小さな信頼を一つ、積み上げるんだ」


 彼の視線の先には、まだ遠い未来――馬にまたがり、自由に西涼の地を駆ける、己の商隊の姿があった。



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