第五十八話 小さな信頼
童庵と食堂の開設が順調に進み、安定の地に拠点を築きつつあった呂明は、次なる課題に取りかかろうとしていた。
――馬が、要る。
広大な西涼の地を押さえるには、馬の確保は不可欠だった。そして、馬を持つ者たちは、漢人ではない。秦に従わぬ、草原の民たちである。
呂明は数人の部下を連れ、町の北方に住まう遊牧民たちの集落へ向かった。
小高い丘を越えた先に、簡素な幕舎がいくつも点在している。
近づくと、子供たちが物陰からこちらを覗き、大人たちは警戒するように立ち上がった。
呂明はゆっくりと馬を進めた。
(……この土地では、彼らもまた、生きるために必死なのだ)
布地のほつれた幕舎、干からびた羊の骨、わずかに草を食む馬たち。
その光景は、秦の都市に生きる民たちの豊かさとは対照的だった。
「俺たちは秦の役人ではない。呂家の者だ。取引を申し出に来た」
呂明は周囲に聞こえるよう、はっきりと言葉を投げた。
一際大きな幕舎から、髭をたくわえた壮年の男が現れる。族長だろう。
男はじっと呂明を見据え、やがて口を開いた。
「……取引、だと?」
声には露骨な不信が滲んでいる。
無理もない。秦の支配は、彼らにとって重荷でしかなかった。重税、徴発、収奪。
呂明はそのことを、報告だけではなく、目の前の現実として理解した。
「俺たちは塩を持っている。だが、馬が足りない。そちらには馬がある。互いに利を分かつために話をしたい」
族長はじっと呂明を見つめたまま、答えなかった。
周囲の男たちも、手に槍を握ったまま警戒を解かない。
呂明は馬を降り、ゆっくりと歩み寄った。
「俺は、秦の役人どもと違う。お前たちの暮らしを奪う気はない。むしろ、助け合いたいと思っている」
族長の眉がわずかに動いた。
そのとき、ふと、幕舎の隙間から子供が顔を出した。
腕には包帯が巻かれ、瘦せ細った手足を震わせている。
呂明は、咄嗟にそちらへ視線を向けた。
そして気づく。
――病人がいる。医薬も、食料も、足りていない。
「……お前たち、薬が必要だろう」
族長は眉をひそめたが、否定しなかった。
呂明は一度だけ深く息をつき、続けた。
「いいだろう。まずは塩と薬を渡す。取引の前払いだ」
周囲にざわめきが広がる。警戒と困惑、そして――一抹の期待。
族長は低く問うた。
「何の見返りもなく、か?」
「今は要らない。ただし、俺たちが再び訪れたとき、話を聞く場を設けろ。それで十分だ」
長い沈黙の後、族長は静かに頷いた。
「……分かった」
呂明は微笑んだ。
まずは信頼を得ること。交渉ではない、人と人との結びつきを築くこと。
それが、この地で生きるための第一歩なのだ。
町へ戻った呂明は、すぐに白玲に命じて、薬と食料を届けさせた。
わずかばかりの贈り物だったが、それは確かに、遊牧民たちの目に希望の光を灯した。
「これでいい」
呂明は小さくつぶやく。
「まずは、小さな信頼を一つ、積み上げるんだ」
彼の視線の先には、まだ遠い未来――馬にまたがり、自由に西涼の地を駆ける、己の商隊の姿があった。




