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神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第四章 興軍開商編
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第五十四話 紙上の野心

 漢中、初夏。


 呂明は静かな書斎で筆を取り、李斯宛ての書状に最後の一筆を記した。

 巻物の端をきちんと巻き上げ、重ねた文書に印を押すと、そばに控えていた白玲に手渡す。


「念を押す。途中で開封されぬよう細工を施した。届ける先は直に李斯殿の手元だ。くれぐれも慎重にな」


「承知しました。李斯殿がこれを読めば、中央と漢中の未来にとって、いかに重要な手紙かを察するはずです」


 白玲が去ると、呂明は机の上に広げた地図へと目を落とした。


 西涼、漢中、南陽、そしてそのさらに先――。

 まだ誰のものでもない、だが、遅かれ早かれ誰かが手を伸ばす場所。

 呂明は、そこに自らの商圏と軍備を築く夢を見ていた。


「俺が守る地は、もはや秦の枠には収まりきらぬ……されど、秦を敵に回すつもりもない。ならば、利用させてもらおう、嬴政の戦を」


 彼の視線の先には、小さな赤印――「漢中」――がある。

 その周囲に線を引き、点を打ち、いくつもの連絡線を結んでいく。

 備蓄倉、武器工房、訓練場、そして密貿易路。


「戦の本丸は中央に任せ、俺はその背を支える。名分はそれで十分だ」


 


 その数日後――咸陽・政庁。


 李斯は呂明からの書状を広げ、黙読していた。

 その後、静かに巻き直し、嬴政の前に進み出る。


「大王。漢中の呂明殿より、ひとつの提案が届きました」


 嬴政はその名に反応し、目を細めた。


「呂明か。楚から戻ったか」


「はい。内容を要約いたします」


 李斯は書状の一部を口にした。


「――『漢中は未だ戦乱の爪痕が深く、中央からの支援を仰ぐには遠すぎる地にございます。よって、これを“安全地帯”として整備し、中央に税・兵糧・兵力を滞りなく供給する要地として機能させたく存じます』」


「ふむ。名分としては悪くないな。……で、裏の狙いは何だ?」


「おそらく、西涼です」


 李斯は地図を指し示す。


「呂明は西涼、さらには巴蜀、南陽への交易路を築こうとしています。安全地帯という構想も、それらを支える後背地としての意味が濃いでしょう。彼は、中央の承認を得ぬまま西へ進出するつもりはない。ですが、利益が中央に還元されるならば、黙認する余地があるとも見ています」


「その通りだ。利益がある限りはな」


 嬴政は地図を睨みつけた後、少し口元を緩めた。


「いい。やらせておけ。あの男がどれほどの才を持とうとも、咸陽を脅かすには早すぎる。……むしろ、敵に使われぬよう、手元に引き寄せるべき男だ」


「は。加えて、呂明殿よりもう一報――」


「まだあるのか?」


「はい。かの老将、廉頗。軍事顧問として呂明殿の陣営に迎え入れたとのことです」


 嬴政の目が鋭く光る。


「……あの老狐が、呂明についたと?」


「表向きは“顧問”という形ですが、軍の整備と指導には充分な威光を持ちましょう。西方の防衛が確かになるのは好材料。問題は……その老将が、どこまで呂明に従うか、です」


 嬴政は再び、黙考する。


「李斯。あの呂明、いつか手綱が要る。だが今は、放っておけ」


「は。では、彼の提案は黙認、ということでよろしいか」


「利益が中央に届き、趙との戦を妨げぬ限りは、だ。……呂明は、己の道を歩ませておけ」


 その言葉に、李斯は深く頭を下げた。


 その夜、書斎に戻った李斯は、火鉢の上に書簡の控えをくべた。

 紙が燃える音が静かに響く。


「呂明……お前が目指す地は、どこまで伸びるのか。天か、それとも、咸陽か……」


 火の中に溶けていく文字に、李斯は目を細めた。

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