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神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第四章 興軍開商編
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第五十三話 漢中の灯

 漢中――

 長らく混乱に包まれていたこの地に、ようやく安堵の気配が戻りつつあった。


 街路には新たな店が並び、瓦が修繕された家々には子どもたちの笑い声が響く。閑散と化していた市も、今では賑わいを取り戻しつつある。呂明が進めてきた復興政策が、ようやく地に根を張り始めていた。


「ここまで戻すのに……随分かかりましたな」


 市の中央を歩きながら、元家宰の張がしみじみと呟いた。


「まだ道半ばです。が、灯は消えていない。それが何より」


 呂明はそう答え、視線を市の北にある一軒の屋敷へと向けた。


 そこでは今、漢中の再建を担う新たな人材たちが集まっていた。


 杜青とせい――三十代半ばの、沈着な文官。かつて巴蜀の国境で起きた領地争いの調停に携わり、その弁舌と兵法で双方を納得させた逸話を持つ男だ。実務に強く、情にも通じる。


 陳咸ちんかん――柔和な表情を湛えた青年で、秦法に明るく、かつその裏をかく“抜け道”にも精通している。かつては法の番人でありながら、民の声を無視しない柔軟な発想を持っている。


 白玲はくれい――青龍幇と深いつながりを持つ女性。物流と情報網の掌握に長け、流通の整備だけでなく、密偵としても動ける実務家である。現地の商人との人脈も広く、女傑と呼ぶに相応しい胆力を備えていた。


 三人はいずれも、かつて漢中が混乱していた頃、身を隠していた名士たちである。


「……よく、この地に戻ってくださいました」


 呂明が礼を述べると、杜青がわずかに笑みを浮かべた。


「我らを見出したのは、貴殿の眼です。張殿と青龍幇が声をかけねば、今も在野に隠れていたでしょうな」


「今や、隠れていた方が安全ではあるのですがね」


 陳咸が皮肉混じりに言い、白玲がくすくすと笑った。


「けれど、貴方が描く“未来の地図”は、見ていて面白い。口先だけの夢語りではない」


 呂明は、懐から一枚の地図を広げた。


 漢中を中心に、北は西涼、南は南陽、東には咸陽、西には蜀――広大な交易圏を描くような構図である。


「ここを、“扉”にするのです。西涼の荒野も、匈奴の草原も、やがてはこの地を通じてつながる。咸陽の中央集権とは別に、もう一つの『秦』が、ここに芽吹く……」


「そのために“開戦”する、というのですか?」


 杜青が問い返した。


「ええ」


 呂明は静かに頷き、地図上の一角――西涼の辺境を指さした。


「戦とは、剣と矛だけではありません。交易と情報、人と人の意志を結ぶこともまた、“戦”です。私は、この地に新たな教育機関を置き、民の法を定める準備を進めます。名ばかりの州ではなく、機能する政体を築く。そのための“開戦”です」


「つまり、秦の中央に頼らずとも動く、新たな経済圏を――」


「そう。嬴政殿下には、あくまで“報告”として届けるつもりです。だが、これは私の意志。秦の狗ではなく、“一人の商人”としての挑戦なのです」


 一同の空気が引き締まった。


 呂明は立ち上がり、静かに言い放つ。


「杜青殿、陳咸殿、白玲殿。皆の力を貸してほしい」


 三人は、互いに目を見交わす。


 やがて、杜青がうなずいた。


「漢中を託すに足る主と見ました。お供いたします」


「ま、騒がしい方が性に合ってますし」


「女が後に引くと思って?」


 それぞれの言葉に、笑いが生まれた。


 夕陽が漢中の瓦を朱に染める中、呂明は呟いた。


「――開戦の準備だ」


 それは、刀剣を振るう戦ではなく。意志と知恵、血と汗で築く、もう一つの“秦”のための戦いの始まりだった。

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