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神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第四章 興軍開商編
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第五十二話 老将の焔

 楚南・寿春の離宮。

 蝉の声が遠くで響く中、庭に面した広間に、頑強な老将が胡坐をかいていた。肌は日に焼け、まるで岩のようにひび割れている。かつての趙の名将――廉頗である。


 腰には今も剣があるが、楚に身を寄せて猶予年。政争に巻き込まれた後、彼に回ってくるのは形ばかりの宴と儀礼だけ。戦場に立つ機会は、二度と与えられなかった。


「――わしが、老いたとでも思っておるのかの」


 廉頗は苦く笑いながら、杯をあおる。


「また昼間から酒ですか。将軍、肝がやられますぞ」


 その傍らに、年老いた副官・范季はんきが静かにひざまずいていた。かつて共に戦を駆けた腹心であり、今も廉頗に忠義を尽くしている。


 范季が苦笑混じりに声をかけるも、廉頗はぐいと杯を干し、天井を睨むようにして言った。


「仕方あるまい。楚の連中は、わしをただの飾り物にしておきたいのじゃ。剣も槍も持たせぬ。口を開けば『お体をお大事に』とぬかす……馬鹿にしおって」


「将軍。あの日、趙を追われたとき、我らは覚悟を決めましたな。だが――ここで朽ちていく姿を、誰が望んだか」


「……ほう、范季、おぬしが言うか」


「わしではありません。お客様がお見えです」


襖が静かに開いた。楚の正装ではなく、異国風の装束をまとった若者――呂明が、丁寧に頭を下げて入室する。


「初めまして。秦国より参りました、呂明と申します」


「秦……?」


廉頗の眉がぴくりと動く。敵国である。戦場で数え切れぬ屍を積み上げた宿敵。その名を名乗られて、穏やかでいられるはずがない。


「呂不韋の息子か……秦の狗が、何をしに来た。斬られにでも来たか?」


 廉頗の声は冷たく、険しかった。


「私は狗ではありません。商人です。ですが将軍の剣は、まだ本懐を遂げていないと聞きました。ならば、それを遂げる舞台を――ご用意しに参ったのです」


呂明の声は、静かで、挑発的だった。


「舞台だと?」


 呂明は静かに言葉を選びながら、文書を取り出した。


「これは、秦王・嬴政殿下からの許可状。貴殿を『軍事顧問』として迎えるためのものです。もちろん、正式な任命ではなく、あくまで私個人の推薦による“招聘”にすぎません」


「ほう……秦が、わしに跪けというのか。舐めるな」


 廉頗は目を細め、怒気を孕んだ声を放った。


「秦の土を踏むくらいなら、このまま朽ち果てる方がましだわ」


「それは“今の秦”をご存じないからです」


 呂明の声に力がこもる。


「私は漢中から西涼へと商路を拓く中、各地の民や商人、時に密偵からも情報を得ております。西涼には、いまだ秦の支配が及ばぬ強国がいくつも存在し、匈奴との戦も避けられぬ状況にあります」


「ほう……匈奴か」


 廉頗が眉をひそめた。


「それほどの強敵がいるなら、秦といえど手こずるだろう」


「ええ。だからこそ、貴殿のような将が必要なのです」


「ふん。わしに秦の心配をさせたいのか」


「いいえ。これは、秦のためではありません。将軍のためです」


呂明は一歩、廉頗に近づいた。


「将軍が育てた兵たちは、今も戦場で名を上げています。だが、肝心の将軍は、ここで茶をすすり、誰にも顧みられぬまま……歳を重ねている。これが本当に、将軍の望んだ未来でしょうか?」


廉頗は無言だった。范季がちらりと、主の横顔を見やる。


「わたくしは、軍を求めているわけではありません。将軍には、軍事顧問として、兵の訓練、地形の分析、戦略立案に携わっていただきたい」


「顧問、だと……?」


「肩書きなど何でもよいのです。問題は、そこに“戦”があるか否か。かつてのように、指揮を執る日が訪れるかもしれません。そして――その成果が、故国・趙の耳に届くならば、将軍を追い出した者どもがどれほど歯噛みするか……」


それは、明らかな挑発だった。廉頗の目が、かすかに光る。


「――言いたいことは、それだけか」


「ひとつだけ。将軍が今ここで“老兵は死なず”と笑うなら、私はすぐに引き返します。しかし、もしまだ胸の火が消えていないならのなら……どうか、共に来ていただきたい」


 静寂が落ちる。蝉の声すら止んだような錯覚のなかで――廉頗は、杯を置いた。


「……范季。あの時の鎧、まだ残っておるか?」


「将軍、あれをお召しになるのですか……。はい。油を差し、錆一つございません」


「……面白い。まずは、どれほどの才があるか見せてもらおうか。呂明とやら」


廉頗の笑みは、若き日と変わらぬ、猛将のそれだった。



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