第五十二話 老将の焔
楚南・寿春の離宮。
蝉の声が遠くで響く中、庭に面した広間に、頑強な老将が胡坐をかいていた。肌は日に焼け、まるで岩のようにひび割れている。かつての趙の名将――廉頗である。
腰には今も剣があるが、楚に身を寄せて猶予年。政争に巻き込まれた後、彼に回ってくるのは形ばかりの宴と儀礼だけ。戦場に立つ機会は、二度と与えられなかった。
「――わしが、老いたとでも思っておるのかの」
廉頗は苦く笑いながら、杯をあおる。
「また昼間から酒ですか。将軍、肝がやられますぞ」
その傍らに、年老いた副官・范季が静かにひざまずいていた。かつて共に戦を駆けた腹心であり、今も廉頗に忠義を尽くしている。
范季が苦笑混じりに声をかけるも、廉頗はぐいと杯を干し、天井を睨むようにして言った。
「仕方あるまい。楚の連中は、わしをただの飾り物にしておきたいのじゃ。剣も槍も持たせぬ。口を開けば『お体をお大事に』とぬかす……馬鹿にしおって」
「将軍。あの日、趙を追われたとき、我らは覚悟を決めましたな。だが――ここで朽ちていく姿を、誰が望んだか」
「……ほう、范季、おぬしが言うか」
「わしではありません。お客様がお見えです」
襖が静かに開いた。楚の正装ではなく、異国風の装束をまとった若者――呂明が、丁寧に頭を下げて入室する。
「初めまして。秦国より参りました、呂明と申します」
「秦……?」
廉頗の眉がぴくりと動く。敵国である。戦場で数え切れぬ屍を積み上げた宿敵。その名を名乗られて、穏やかでいられるはずがない。
「呂不韋の息子か……秦の狗が、何をしに来た。斬られにでも来たか?」
廉頗の声は冷たく、険しかった。
「私は狗ではありません。商人です。ですが将軍の剣は、まだ本懐を遂げていないと聞きました。ならば、それを遂げる舞台を――ご用意しに参ったのです」
呂明の声は、静かで、挑発的だった。
「舞台だと?」
呂明は静かに言葉を選びながら、文書を取り出した。
「これは、秦王・嬴政殿下からの許可状。貴殿を『軍事顧問』として迎えるためのものです。もちろん、正式な任命ではなく、あくまで私個人の推薦による“招聘”にすぎません」
「ほう……秦が、わしに跪けというのか。舐めるな」
廉頗は目を細め、怒気を孕んだ声を放った。
「秦の土を踏むくらいなら、このまま朽ち果てる方がましだわ」
「それは“今の秦”をご存じないからです」
呂明の声に力がこもる。
「私は漢中から西涼へと商路を拓く中、各地の民や商人、時に密偵からも情報を得ております。西涼には、いまだ秦の支配が及ばぬ強国がいくつも存在し、匈奴との戦も避けられぬ状況にあります」
「ほう……匈奴か」
廉頗が眉をひそめた。
「それほどの強敵がいるなら、秦といえど手こずるだろう」
「ええ。だからこそ、貴殿のような将が必要なのです」
「ふん。わしに秦の心配をさせたいのか」
「いいえ。これは、秦のためではありません。将軍のためです」
呂明は一歩、廉頗に近づいた。
「将軍が育てた兵たちは、今も戦場で名を上げています。だが、肝心の将軍は、ここで茶をすすり、誰にも顧みられぬまま……歳を重ねている。これが本当に、将軍の望んだ未来でしょうか?」
廉頗は無言だった。范季がちらりと、主の横顔を見やる。
「わたくしは、軍を求めているわけではありません。将軍には、軍事顧問として、兵の訓練、地形の分析、戦略立案に携わっていただきたい」
「顧問、だと……?」
「肩書きなど何でもよいのです。問題は、そこに“戦”があるか否か。かつてのように、指揮を執る日が訪れるかもしれません。そして――その成果が、故国・趙の耳に届くならば、将軍を追い出した者どもがどれほど歯噛みするか……」
それは、明らかな挑発だった。廉頗の目が、かすかに光る。
「――言いたいことは、それだけか」
「ひとつだけ。将軍が今ここで“老兵は死なず”と笑うなら、私はすぐに引き返します。しかし、もしまだ胸の火が消えていないならのなら……どうか、共に来ていただきたい」
静寂が落ちる。蝉の声すら止んだような錯覚のなかで――廉頗は、杯を置いた。
「……范季。あの時の鎧、まだ残っておるか?」
「将軍、あれをお召しになるのですか……。はい。油を差し、錆一つございません」
「……面白い。まずは、どれほどの才があるか見せてもらおうか。呂明とやら」
廉頗の笑みは、若き日と変わらぬ、猛将のそれだった。




