第五十一話 秦王の許し
咸陽――。春の雪がうっすらと瓦屋根を覆い、乾いた風が宮城を吹き抜けていく。
「楚よりの文が到着しました」
伝令の報に嬴政は眉を上げた。差出人は呂明。滞在先の漢中を離れ、楚へと向かった若き商人からの便りは、これで三通目になる。
嬴政は文を受け取り、静かに封を切る。
筆跡は整い、余白も整然としている。それは呂明の気質をそのまま写したかのような書状だった。
啓上
大秦帝国 王・嬴政殿下
下記の通り、楚南における交易会の設立と、軍事顧問の招聘についてご報告申し上げます。
まず初めに、楚南における交易の状況についてご報告いたします。近年、楚南の市場は活気を帯びており、特に漢水沿岸の流通が順調に進んでおります。この交易網を基に、さらに規模を拡大するために、楚南交易会を発足する運びとなりました。この会を通じて、楚南各地の市場を開拓し、物資の流通を一層円滑にすることができると考えております。
また、漢中の防衛についてもご懸念いただきたく存じます。現在、漢中は周囲の諸勢力からの脅威に晒されており、守りを固める必要があります。そこで、廉頗将軍の招聘を考えております。廉頗はかつて趙の名将として数多の戦果を挙げ、その戦略眼と指導力は今なお高く評価されております。楚に亡命している現状、彼の協力を得ることで、漢中の防衛体制を強化し、民の安寧を守ることができると確信しております。
廉頗の招聘に関して、どうかお許しいただきたくお願い申し上げます。私の知る限りでは、彼は不遇の時期を過ごしておりますが、その経験と知識を活かすことで、秦の軍にも大いに貢献できるであろうと信じております。
もし、貴殿がこの提案を受け入れ、廉頗を軍事顧問として招くことが可能であれば、私はその後も漢中の発展を支えるため、一層尽力いたします。
草々
漢中の呂明
読み終えた嬴政は、しばし無言のまま文を見つめた。
側近の李斯が、静かに言った。
「……廉頗とは、あの?」
「ああ。かつて趙の三大天のひとりにして、秦の六将らとやり合った男だ。我らを苦しめた宿敵でもある」
嬴政は唇に笑みを浮かべた。呂明という男は、時折とんでもないことをさらりと書いてよこす。
だが、それが実現すれば――。
秦が誇る武威に、新たな風をもたらすかもしれない。
「面白いじゃないか」
嬴政は筆を取ると、さらさらと返書をしたためた。
呂明へ
楚南交易会の発足、よくやった。
廉頗の招聘、好きにするがいい。どうせ無理だろうが、もしやれるものならやってみろ。
ただし、迎え入れた後は、そなたが責任を持って扱え。秦の名を汚すことなきよう。
――咸陽にて、嬴政
筆を置いた嬴政は、文を李斯に渡した。
「漢中は、あやつの手で動き始めている。さて、どこまでやるか……見ものだな」
その声音には、王としての威厳と、少年のような好奇心が交じっていた。




