第四十八話 野心と秤
楚国・郢の都城――。
春申君の死から、まだ幾日も経っていない。
その死の背景には李園の謀略があるという噂が、すでに城内を駆け巡っていた。だが、真偽を確かめようとする者はいない。政変の余波は、速やかに実権の継承という形で収束へと向かっていた。
呂明は、郢の一角にある官舎で、李園派の官吏・厳勝と対峙していた。
厳勝――李園の腹心として知られる男。
春申君の下では、その過激な言動から重用されず、長く辺境の役所に冷遇されていた。だが、李園が勢力を強めるにつれ、彼もまた都に呼び戻され、今や新政権の中核に食い込もうとしている野心家だった。
厳勝は、胡座のまま呂明を一瞥し、低い声で問いかける。
「……貴殿は、密輸組織を“組み込む”と申したな?」
「ええ、楚にとっても、李園様にとっても利益になると信じています」
呂明は笑みを浮かべたまま、簡素な木箱から一枚の布地を取り出した。そこには綿密な交易ルート図と、供給量、関税収入の推計が記されていた。
「蔡家との協定を得ています。正規の流通に密輸組織を組み込むことで、物資不足を解消し、税収も倍増します。もちろん――貴殿が音頭を取れば、李園様の名も上がる」
「口は回るようだが……裏は?」
厳勝の目が細くなる。呂明はわずかに肩をすくめた。
「貴殿は、春申君の元では冷遇されていたと聞いています」
言葉が空気を切る。
「だが今は違う。新しき主が立ち、貴殿のような先見の士が必要とされる。私は、それを後押しする“商人”です」
厳勝の表情に、わずかな動揺が走る。呂明は畳み掛けた。
「新しき主に従うのは、常に身軽な者です。私も、黒鷲も、そうありたい。蔡家も例外ではない。ならば、最も早く動いた者が主導権を握るのは道理です」
厳勝の眉がわずかに上がる。
彼は元来、思慮よりも行動を好む男だった。だが今は、都の重責を担う立場にある。だからこそ、呂明の提案に惹かれる自分を、どこかで警戒していた。
「お前……かつて、どこかで似たようなことをしたことがあるな?」
「はい。西域との貿易合併で、敵対する部族間に共同の利を示したことがあります。力でねじ伏せるのではなく、必要にさせる。今回も同じです」
呂明は続ける。
「李園様は、混乱のなかで楚を立て直さねばならない。そのためには、旧き枠組みに頼るよりも、新たな秩序を築く方が早い。そして私と貴殿は、それを実現できる側に立てる」
静寂。
やがて、厳勝が鼻を鳴らした。
「……面白い」
呂明が目を細める。
「それは、李園様への伝言として受け取ってよろしいですか?」
「お前の提案は通す。だが、黒鷲との交渉が失敗すれば、すべては水泡に帰す。いいか? 俺が動くのは、あくまで結果次第だ」
「承知しております。――では、黒鷲に会う段取りを」
厳勝は立ち上がり、帳面を一瞥した後、小さく呟く。
「……李園様がどう判断されるかは、知らんぞ」
その言葉の裏にある含みを、呂明は理解していた。
彼自身が、秤の上に乗っているのだ。
その重さが、李園という野心家の心をどちらに傾けるのか――
交渉の先にある、さらなる策謀の匂いを感じつつ、呂明は静かに帳面を見つめた。
(まずは、一手。李園の胸中を、秤にかけてみよう)




