第四十六話 秩序を売る者
蔡家の商館は、まるで要塞のようだった。分厚い木製の門の前には屈強な護衛が立ち並び、周囲には蔡家の配下と思しき人々が行き交う。その様子を眺めながら、呂明は改めてこの地の勢力図を整理していた。
(蔡家は確かに力を持っている……だが、それだけではない)
彼らは物流を独占し、官吏とも深く結びついている。しかし、それでも漢水の支配は盤石ではない。その最大の要因――それが、密輸組織の存在だった。
「さて……どう動くべきか」
呂明は静かに息を吐き、蔡家の当主・蔡文との対面に備えた。
蔡家の屋敷から戻った呂明は、項季とともに密輸組織についての調査を急がせていた。
「楚の市には、表通りの市とは別に“影の市”があるそうです。蔡家が目を光らせているにもかかわらず、抜け道を見つけては商いを続ける連中です」
項季はそう言いながら、楚都の地図を広げた。
「彼らは主に、塩や鉄器、織物などの統制品を扱っています。官から規制されているものばかり……ですが、それだけ需要があるということです」
呂明はうなずいた。楚の市場には、明らかに“足りていない”ものがある。そして、密輸組織はそれを満たしていた。たとえ非合法であっても、人々の生活を支えていたのだ。
「ならば、彼らを消す必要はない。──取り込めばいい」
「え?」
「蔡家にとっての悩みは、秩序の乱れと自らの威信の低下。ならば、密輸組織を正規の商会として再編し、蔡家の許可のもとで活動させればいい。供給不足は解消され、民は蔡家に感謝するだろう」
項季は目を見開いた。
「密輸を、合法に……」
「そう。楚の官吏が取り締まれないものを、蔡家が管理する。これは蔡家にとって、“力”を示すまたとない機会だ」
蔡家の当主・蔡文は、秩序と名誉にこだわる男だった。もし密輸を取り締まるだけでなく、それを秩序ある商業に変えたとすれば──彼は「楚の混沌を正した豪商」として、民の記憶に残るだろう。
「だが、密輸組織をどうやって取り込むんです?」
項季の疑問はもっともだった。だが、呂明は小さく笑った。
「彼らは、利に敏い。こちらが楚での販路と保護を提供できるなら、十分交渉の余地はある。何より──漢中の物資は、それだけの価値がある」
そして何より、呂明には「蔡家の背後を説得する理由」がある。蔡家にとっても、これは敵を味方に変える千載一遇の機会なのだ。
──敵を潰すのではなく、秩序のなかに取り込む。
それが、漢中商会の理念であり、呂明の信じる「交渉」の力だった。
「珍しい客人だな」
応接間に通されると、蔡文がゆったりと椅子に腰掛けながら呂明を見据えていた。五十代半ばの壮年。鍛え上げられた体躯と鋭い眼光を持つ男だ。
「漢中の商人風情が、何の用だ?」
蔡文の声音には試すような響きがあった。
「漢水の交易を拡大したいと考えています」
呂明は静かに告げた。
「ふん。交易を拡大、か……。お前が何を企んでいるかは知らんが、漢水の流通は蔡家のものだ。勝手なことを考えられては困る」
「確かに、表向きはそうですね」
呂明は微笑みながら答えた。
「しかし、実態はどうでしょう? 密輸組織が蔡家の物流を脅かしているのでは?」
蔡文の目が細められる。
「……何が言いたい?」
「彼らは、ただの盗賊ではありません。楚の官吏に賄賂を渡し、独自の交易網を形成しつつある。蔡家の水運を利用しながらも、いずれは蔡家を排除するつもりです」
蔡文の表情がわずかに険しくなった。
「ならば、排除すればいいだけのことだ」
「それは可能でしょうか?」
呂明は穏やかに問いかけた。
「密輸組織には、数多くの部下と強固な情報網があります。楚の役人と繋がっている以上、無理に動けば蔡家の方が圧力を受けるかもしれません。下手に衝突すれば、貴方が不利になる」
蔡文は沈黙した。
(やはり、無視できない問題か……)
呂明は核心に踏み込んだ。
「そこで、私が動きます」
蔡文が目を細めた。
「……どういう意味だ?」
「密輸組織を、私が取り込むのです」
「馬鹿な。そんなことができると本気で思っているのか?」
蔡文は嘲笑するように言った。
「彼らは蔡家を脅かすほどの勢力だぞ。どうやって従わせる?」
呂明は静かに答えた。
「密輸を完全に取り締まることは、貴家にとっても難しいでしょう。ですが──もし、彼らを秩序のなかに取り込めたとしたら?」
蔡文の目が細くなる。
「……どういうことか、詳しく聞こうか」
「密輸組織を、正規の商会として再編します。彼らには蔡家の許可と私の保護のもとで、漢中商会の支援を受けた交易を行ってもらう。蔡家は新たな税収を得て、楚の市場の混乱を鎮めた“英雄”となるでしょう」
蔡文は鼻で笑った。
「理想論だ。奴らが従う保証はあるのか?」
「力で従わせるのではありません。利益で彼らを引き込むのです」
「利益だと?」
「彼らは現状、官にも蔡家にも追われ、常に恐れながら商いをしている。ですが我々が手を差し伸べれば、安全と安定が手に入る。──それは彼らにとっても“利”になる」
呂明は密輸組織のリーダー、「黒鷲」の名前を口にした。
「黒鷲は賢い男です。彼が求めているのは、ただの密輸の利益ではありません。独自の商圏を持ち、正規の商人として動く道を探っている」
蔡文の表情が変わる。
「……なるほど。奴も今のやり方に限界を感じている、というわけか」
「はい。ならば、彼らを商人として認め、新たな流通網を構築する方が賢明でしょう」
呂明は続けた。
「密輸組織を従えれば、蔡家にとっても好都合のはずです。交易網が拡大し、楚の官吏との関係も強化できる」
蔡文は腕を組み、深く考え込んだ。
「……お前にできるのか?」
「試してみる価値はあるはずです」
蔡文は沈黙したまま、しばらく考えていた。
呂明は、蔡文の虚栄心をくすぐるよう、低く静かに続けた。
「蔡家が楚の秩序を取り戻したと評判が立てば、官よりも貴家を頼る民は増えるでしょう。いずれは──楚の支配者をもしのぐ影響力を持つかもしれません」
その言葉に蔡文は、一瞬、目を細めた。長年、水運を支配してきた彼にとって、新たな視点からの提案は、新鮮な驚きだった
彼は静かに椅子にもたれ、目を閉じる。
「いいだろう。だが、俺は手を貸さん。お前が勝手にやるなら好きにしろ」
「承知しました」
呂明は深く一礼した。
──戦わずして、敵を味方に変える。
蔡家という巨人を、ようやく交渉の天秤に乗せた呂明は、次なる一手──密輸組織との接触に向け、動き始めた。