第四十五話 漢水の支配者
項季が用意した書状を手に、呂明は蔡家の拠点である商館へと向かった。
蔡家──楚国の水運を牛耳る一族。その名を口にするだけで、地元の商人たちは顔を曇らせる。
「蔡家に逆らった者がどうなったか、知らないわけじゃないだろう?」
昨日、情報収集のために訪れた茶屋で、老いた商人がそう呟いたのを思い出す。
蔡家は、単なる通行税の徴収者ではない。彼らは漢水の秩序を維持し、商路の安全を確保する役割を担ってきた。その影響力は絶大で、楚の王族とも強い結びつきを持つ。単なる豪商ではなく、交易を通じて一族の誇りを守る者たち でもあった。
そんな相手と、ただの商談で済むはずがない。
「随分と緊張しているようだな、呂明」
項季が笑いながら言う。
「蔡家との交渉は一筋縄ではいかない。だが、勝算がないわけじゃない」
呂明は、ふと遠い記憶を呼び起こした。
生前、企業の管理職だった頃、大手取引先との交渉に臨んだことがある。相手は長年の取引を盾に、一方的に不利な条件を押し付けようとしていた。
だが、彼らが何より大事にしているのは「会社の信用とブランド価値」だった。
そこに目をつけた呂明は、金銭だけでなく、企業の社会的評価に訴えることで交渉を有利に進めた。
──金だけでは人は動かない。相手の誇りや立場を揺さぶることが重要だ。
今回の交渉も、根本は変わらない。蔡家が守ろうとしているものを見極め、それに揺さぶりをかけることができれば、突破口は開ける。
「交渉とは、相手が何を求めているかを見極めることだ」
呂明は静かに言った。
「蔡家は、金だけでは動かない。彼らの『名誉』をどう揺さぶるか……それが鍵になる」
その言葉に、項季がわずかに表情を曇らせた。
「蔡家の名誉……な。俺にとっては、ろくでもないものだ」
呂明は、項季の言葉に目を向けた。
「お前……蔡家に何か因縁があるのか?」
項季は一瞬、口をつぐんだが、やがて苦笑した。
「昔、蔡家の連中に酷い目に遭わされたことがある。まあ、俺個人の話だ。交渉には関係ない」
そう言ったが、呂明には関係なくはないように思えた。蔡家に対する感情が、項季の判断を揺るがす可能性もある。
だが今は、それを追求する時ではない。
「……とにかく、行くぞ」
二人は、商館の門をくぐった。
蔡家の当主・蔡文との交渉が、今まさに始まろうとしていた。




