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神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第三章 離乱興商編
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第四十三話 楚との取引

今回少し長めです。

 襄陽の館に、楚の商人たちが集まっていた。天井の梁には細かな彫刻が施され、壁には古いが品のある掛け軸がかかっている。室内には甘い香が漂い、静かな緊張感が場を包んでいた。


「手間をかけさせたな、項季」


 呂明は、楚の商人たちと向かい合いながら、隣に立つ項季に目を向けた。


「大したことじゃねえよ。元々、あっちもこっちと繋がりを持ちたがってたんだ」


 項季は肩をすくめて言ったが、その顔には満足げな色が浮かんでいた。彼は元々楚の出身であり、故郷との繋がりを持つことには意味があった。


「それでも、お前がいなければ話はここまでスムーズに運ばなかった。助かった」


 呂明がそう言うと、項季は少し照れ臭そうに鼻を鳴らした。


「さあ、本題に入ろうか」


 呂明は楚の商人たちに向き直り、改めて場を引き締めた。


 燭の明かりが揺れるなか、楚の商人たちが円卓を囲んでいた。


「つまり、漢中を拠点に、我ら楚の商人と秦の市場を結ぶということか」


 商館の主・季成きせいが問いかける。年のころは五十を過ぎた老商人で、楚国内の交易網を取り仕切る大物だ。


 季成を筆頭に、襄陽や陳、寿春といった楚の各地から集まった豪商たちは、じっと呂明を見つめている。


「その通りです」


 呂明は落ち着いた口調で答えた。


「漢中は秦と楚を繋ぐ地にあります。この地を活用すれば、秦の良質な鉄器を楚へ、楚の絹や香木を秦へと安定供給できるでしょう」


 襄陽の商館には、楚の豪商たちが集まっていた。呂明が提案した交易の話に関心を示しつつも、彼らの表情には慎重な色が見える。


「だが——」


 季成が扇をゆっくり閉じる。


「我らが秦と通じることで、楚の王族や貴族に睨まれる可能性は?」


「交易は国と国の争いとは別の話」


 呂明は微笑を浮かべる。


「楚の貴族たちも、利益が出ると分かれば反対はしませんよ。むしろ、彼ら自身が商いに関与するようになれば、こちらの立場は安泰です」


「ふむ……」


 季成は考え込む。


 呂明はここで、一つの札を切った。


「……つまり、お前は李斯と話をしたというのか?」


 低い声で問いかけたのは季成だった。

 彼は襄陽随一の商人であるだけでなく、楚国内の商業網を掌握する立場にある。彼の決断一つで、楚国内の商人たちの動向は大きく左右される。


 その目は、長年の商売経験から培われた洞察に満ちていた。


「話をしたとは言っていない」


 呂明は微笑を浮かべ、ゆっくりと酒杯を置いた。


「私が李斯に書状を送り、それを読んでもらった。それだけだ。しかし、李斯は私の動向を把握しているし、嬴政にも報告されたことは間違いない」


「……ふん」


 季成は軽く鼻を鳴らしながらも、その目を細めた。

 確かに直接会ったとは言っていないが、あえて商人たちに誤解を与えるような言い回しをしている。


 案の定、他の商人たちがざわめいた。


「李斯にまで名が届くとは、なかなかの大物ではないか」


「だが、それが何になる?」


「仮に李斯が呂明を警戒しているとして、それがこの取引にどう影響する?」


 商人たちは互いに顔を見合わせながら、小声で議論を始めた。


 呂明は確信した。勝負は、ここからだった。


 彼らを見て、呂明はゆっくりと杯を傾けた。


「秦の中枢が私を警戒するなら、それはつまり、私が秦の中である程度の影響力を持ち始めたということだ。そんな人物が楚との交易を持ちかける——それがどういう意味を持つのか、考えてみるといい」


 商人たちのざわめきが、さらに大きくなった。


「秦は商業に厳しい。だが、呂明が交渉の窓口になれば、関所税の負担を軽減できる可能性がある……」


「では、具体的にどのような条件で取引を?」


 季成の声には、既に興味が滲んでいた。


 呂明はゆっくりと指を折る。


「まず、楚の商人が扱う商品の関所税を大幅に軽減しましょう。秦へ持ち込む際の負担を減らせば、交易は活発になります」


「ほう……?」


「さらに、輸送路の安全確保も保証します。漢中の商隊が護衛をつけ、楚の商人の隊商を守る仕組みを作るのです。ただ、お代は頂きますが」


「ほう……」


 商人たちがざわめく。


「だが、それだけでは我らの利は少ないな?」


「もちろんです」


 呂明は頷く。


「その代わり、楚の商人には、秦の商人よりも先に新しい漢中の商品を仕入れる権利を差し上げます」


「……!」


 商人たちの目が輝いた。


「それはつまり、我らが秦の市場に対して優位に立てるということか?」


「ええ。楚の商人が先に良質な商品を手に入れ、それを楚国内で独占できる」


呂明の言葉に、季成が目を細める。


「お前は、なかなかの策士だな」


「商売とは、互いの利益があってこそ成り立つものです」


 呂明は軽く笑った。


「私一人が得をするのではなく、皆が得をする形にしなければ、長くは続きません」



「それだけではない。奴は交易路の安全確保を約束した」


「しかも、先に仕入れる権利も与えると言ったな」


 その言葉に、数人の商人の目が明らかに輝いた。


 交易において、競合よりも先に物資を確保できることが、どれほどの優位性を生むか——長年商売をしてきた彼らには理解できる。


「秦との交易で先行者利益を得られるのは悪くない……」


「だが、秦の政治に深入りするのは危険では?」


 商人たちの間で意見が割れ始める。


 その様子をじっと見つめていた季成が、やがてゆっくりと口を開いた。


「……呂明。お前の言う通り、我々商人にとって最も重要なのは利益だ。そして、お前の提案には確かに大きな利益がある」


 そう言いながら、杯を傾ける。


「だが、利益だけでは商いは成り立たん。我々は、長く生き残らねばならない」


 重々しく言い放ったその言葉に、商人たちは静まり返った。


「秦との交易を始めるなら、こちらもリスクを負うことになる。その覚悟を持つべきだ……」


 室内の空気が張り詰める。


 やがて、季成は静かに呂明を見据えた。


「……それでも、お前の言う交易に乗る価値があるのか?」


 その問いに、呂明は迷いなく頷いた。


「ある。楚と秦は対立しているが、交易はその垣根を越える力を持つ。私はその道を切り開くつもりだ」


 季成はしばし黙考し——そして、静かに頷いた。


「……よかろう。お前の話に乗ろう」


 その言葉が発せられた瞬間、商人たちの間に新たな熱気が生まれた。


「やるからには、徹底的に儲けさせてもらうぞ」

「まずはどの品を優先的に取引するか、細かく詰める必要があるな」


 次々と具体的な話が飛び交い始め、場の雰囲気が一変する。


 その様子を眺めながら、呂明は静かに杯を掲げた。


 ——楚との扉は、確かに今開かれた。

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