第四十二話 李斯の迷い
李斯は机の上に置かれた書状を静かに見下ろしていた。
それは、呂明が李斯に宛てて送った報告——楚との交易拡大計画についての詳細が記されたものだった。
「……なるほど」
書状の内容は簡潔かつ明瞭だった。襄陽の商人との交渉、物流の整備、楚国内での販路確保の手筈——
どれをとっても理に適っており、抜け目がない。加えて、呂明は自身の立場を慎重に守りつつ、漢中が秦にもたらす利益を強調していた。
だが、李斯の表情は晴れなかった。
「……やはり、あの男はただの商人ではない」
呂明の策は秦に利益をもたらす。だが、同時に漢中を独立した経済圏へと成長させる可能性も秘めている。
かつて、呂不韋もそうだった。
呂不韋は才覚によって国政を掌握し、莫大な富と権勢を築き上げた。だが、最終的に彼は国の枠を超えようとし、嬴政によって排除された。
「……呂明も、いずれはそうなるのか」
李斯は一度、書状から目を離し、天井を仰いだ。
呂明は呂不韋とは異なる。国政への野心を見せず、あくまで商いに徹している。しかし——
「商業の力は、時に政治すらも動かす」
李斯の中で、報告するべきか否かの迷いが生じる。呂明の才覚は秦の利益となる。しかし、もしこのまま力を伸ばせば、いずれ秦の秩序を乱す存在となるかもしれない。
机の上の書状を見つめ、彼は一つ息を吐いた。
「……報告するしかあるまい」
「法とは、秩序を保つためにある」
李斯は秦の法律を司る者。秦に利益をもたらす者であれど、国家にとっての脅威となる可能性を持つならば、早めに王に報告し、監視の目を向けねばならない。
彼は決意を固め、書状を手に取り、宮廷へと向かった。
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嬴政は李斯から受け取った書状に目を通していた。
「……ふむ」
書状の内容を読み終えた嬴政は、ゆっくりと机に置き、李斯を見やる。
「呂明の『先』を、どう見る?」
その問いに、李斯は少しの間、言葉を選んだ。
「……現時点では、漢中を発展させるという点において、有益な存在です。しかし——」
「いずれ牙を剥く可能性がある、ということか」
「その可能性は、否定できません」
嬴政は静かに頷くと、窓の外へと目を向けた。
「呂明は面白い」
「……大王?」
「才覚を持つ者は多い。だが、それを活かせる者は少ない」
嬴政の声には、わずかに興味を含んでいた。
「奴は商人に過ぎぬ。だが、ただの商人ではない。己の才覚を存分に活かし、漢中を動かしている」
「大王は……呂明をどのようにお考えなのでしょうか?」
李斯の問いに、嬴政はふっと笑った。
「利用価値があるうちは、泳がせておけばよい」
「しかし——」
「李斯、お前も知っているだろう。才覚ある者をすぐに潰すのは、最善策ではない」
嬴政の眼が鋭く光る。
「呂明の『先』を見定めるのは、まだ早い。だが、警戒は怠るな」
李斯は深く頷いた。
「心得ました」
嬴政は再び書状に目を落とすと、呟くように言った。
「……呂不韋の子か」
その声には、かすかな興味と警戒が入り混じっていた。
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漢中・呂明の屋敷
呂明は襄陽との交易準備を進める一方で、新たな展開を模索していた。
「西涼か……」
呂明は地図を広げ、西涼の地を見つめる。
「楚との交易は確かに利益をもたらすが、それだけでは不十分だ」
漢中を真に商業の要衝とするならば、南の楚だけでなく、北の西涼との交易路を確保する必要がある。
南と北を繋ぎ、独自の経済圏を築く——それこそが、漢中の自立への道となる。
「……問題は、西涼の商人をどう取り込むか、か」
呂明は指で地図をなぞる。
「いずれにせよ、まずは接触する必要があるな」
新たな商機を求め、呂明は次なる一手を打つ決意を固めた。




