第四十話 商人の誇り
漢中の城門をくぐり、張と清はまっすぐ呂明のもとへ向かった。咸陽からの帰路は険しかったが、今はそれを振り返る暇もない。二人の報告が、これからの漢中の行方を左右することになる。
呂明は書斎にて二人を迎えた。帳簿を閉じ、深く息を吐きながら顔を上げる。
「まずは無事の帰還を喜ぼう。早速だが、報告を頼む」
張は深く一礼し、端的に告げた。
「呂不韋様との接触に成功しました。他者との接触は制限され、実質的には軟禁状態にあります。自由はある程度保証されているものの、咸陽への影響力はほぼ失っています」
呂明は静かに頷いた。予想はしていたが、実際にその状況を聞くと胸の内がざわつく。
「そして……呂不韋様から、あなた様への言葉を預かっています」
清が口を開いた。
「まず、統治者としての助言です。『第一に、漢中が秦の物流の要衝となることを強調せよ。第二に、現地の安定こそが税収を増やし、民を富ませるという理を説く。第三に、商人が軍と敵対する存在ではないと明確に示すのだ』と」
呂明は目を閉じ、言葉を一つひとつ噛み締めた。
「……要衝であることを示すのは容易い。だが、税収と安定、そして軍との関係性……簡単ではないな」
「呂不韋様も、それを承知の上での助言でしょう。ただ、もう一つ、父としての言葉も残されました」
張が慎重に言葉を選びながら続ける。
「『お前がどの道を選ぼうと、決して誇りを失うな。自らの才を信じ、それを活かせる道を選べ』と」
呂明の手が、机の上でわずかに動いた。父としての言葉。それは、政治的な助言とは異なる温かみを持っていた。
「……あの人らしい言葉だ」
呂明は静かに呟き、目を開ける。張と清を見据えた。
「李斯の反応はどうだった?」
清が前に出る。
「書状を受け取った際、李斯は沈黙しました。それ自体は儀礼とも取れますが、その後の反応が少し違いました」
「どういうことだ?」
「李斯は、一瞬だけ視線を逸らし、考え込むような素振りを見せました。呂不韋の影響力を測っていたのか、それとも嬴政の意向を探っていたのか……」
「確かに、李斯ほどの男が何の意図もなく沈黙するとは考えにくい」
呂明は腕を組み、深く思考する。
「もし李斯が、嬴政に『呂明は漢中を独立させようとしている』と匂わせるような報告をすれば、我々の立場は危うくなる」
張が続ける。
「呂不韋様の言葉にあったように、漢中の価値を強く打ち出せれば、逆に秦にとって不可欠な地となるはず。李斯がどう報告するかは未知数ですが、我々も先手を打つべきかと」
呂明はしばらく沈黙した後、静かに口を開いた。
「……まずは、呂不韋の助言に従い、漢中の価値を改めて示す策を講じる。物流の要衝としての利を秦に認識させるのだ。そして、我々が秦にとって脅威ではなく、むしろ利益をもたらす存在であると示す」
清が頷く。
「そのためには、さらなる商業の発展と、軍との関係を良好に保つ必要がありますね」
「その通りだ。呂不韋の助言は、まさに今の漢中に必要なものだ。父としての言葉も……」
呂明はふっと笑みを浮かべた。
「誇りを失うな、か。あの人らしいな」
彼は椅子から立ち上がり、窓の外を見つめる。山々に囲まれた漢中。その未来は、これからの一手にかかっている。
「次の一手を打つ。今こそ、漢中を動かす時だ」
張と清は深く頷き、新たな決意と共にその場を後にした。




