第三十八話 李斯の沈黙
張は洛陽の宿を発つと、一路咸陽へ向かった。漢中へ戻る前に、もう一つの使命を果たすためである。
呂明から託された二通の手紙。そのうちの一通はすでに呂不韋に届けられた。そしてもう一通は、秦王政の側近である李斯へと渡すべきものだった。
咸陽に到着すると、張は李斯の邸宅へと向かった。門前で名を告げると、しばらく待たされた後、李斯は応接の間へと張を迎え入れた。
邸内の静けさは、ただの静寂ではなく、緊張感を孕んでいる。屋敷の警備は厳重であり、それだけ李斯が慎重な人物であることを物語っていた。
張のすぐ後ろには清がいた。彼女は無言で周囲を観察しながら、屋敷の造りや護衛の配置に目を走らせている。その鋭い視線は、一瞬たりとも警戒を解いていなかった。
「呂明殿からの書状か」
李斯は手紙を受け取りながら、静かに尋ねた。その表情には、慎重さがにじんでいた。
「はい。呂明様からの書状です。内容については私も存じませんが、殿が直接目を通されるべきものかと」
李斯は手紙の封を切ると、慎重に目を走らせた。無言のまま読み進めるその表情は微動だにしない。
だが、最後まで読み終えた瞬間、彼の指先は、静かな衝撃を物語っていたわずかに指先が震えたように見えた。手紙の内容は、李斯がこれまで抱いていた呂明の印象を覆すものだったのかもしれない。
「……興味深い」
李斯はそう呟くと、手紙を畳み、机の上に置いた。その目が張を見据える。
「これは呂不韋殿の意向も反映されているのか?」
「それについては、私から申し上げるべきことはありません。ただ、呂明様は漢中の安定と、秦の未来を考えて書かれたのだと思います」
「なるほど……」
李斯は軽く頷いたものの、それ以上の言葉は続かなかった。
「これを秦王へ届けるかどうか、私が判断してもよいのか?」
「殿のご意向はお任せする、とのことです」
「……そうか」
李斯は少し考え込むと、手紙を慎重に巻物の筒へと納めた。その動作には、迷いが見えた。
張は、李斯の言葉一つ一つ、表情の変化を見逃さないように注意深く観察していた。彼のわずかな反応の中に、呂明に伝えるべき重要な情報が隠されているかもしれないと考えていた。
「返答を求めるものではないのだな?」
「はい」
「ならば、しかるべき時が来れば、私の判断で処理させてもらおう」
張は深く頭を下げた。李斯の態度から、すぐに嬴政へ手紙を渡すつもりはないことが伝わってきた。
しかし、完全に拒絶したわけでもない。
「お時間を頂き、感謝いたします」
張が礼を述べると、李斯は薄く微笑んだ。その笑みは何を意味するのか、清は読めなかった。彼女は直感的に、この場における沈黙の意味を考えた。言葉にされなかった何かが、確かに存在している。
沈黙の中で下される決断。その重さを張は噛み締めながら、邸を辞した。
屋敷を辞した後、張と清は並んで歩いた。しばらく無言のままだったが、やがて清が口を開く。
「李斯は……何かを考えていましたね」
張はゆっくりと頷いた。
「ああ、だが、それが何かは分からない」
「警戒している様子はなかった。ただ、迷いがあったように見えました」
張は清の言葉に耳を傾けながら、自らの解釈と照らし合わせる。李斯の反応は、確かに単純なものではなかった。
「奴は沈黙を武器にする男だ。だが、沈黙の中にも意図はある」
「それを見抜くのが私たちの役目ですね」
清の言葉に、張は微かに笑みを浮かべた。
「その通りだ」
二人は再び歩き出した。李斯の手に渡った手紙が、どのような波紋を生むのか——
それはまだ分からない。だが、確かなことが一つある。沈黙の中には、遺された何かがあるのだ。
咸陽を発った張の背には、すでに漢中の景色が思い浮かんでいた。呂明のもとへ戻り、呂不韋の言葉を伝えるために——。