第三十七話 沈黙の遺訓
新章なので、調子に乗って2話更新してみます。
夜の洛陽は静寂に包まれていた。張と清は呂不韋の屋敷へと忍び込む手引きを受け、裏手の門から敷地内へと入った。かつての華やかさは失われ、厳しい監視の目が光る中、二人は屋敷の奥へと導かれた。
待っていたのは、灯火の影に沈む一人の男――呂不韋であった。かつては秦国随一の権勢を誇った男も、今は幽閉にも等しい状況にあった。それでも、彼の目は衰えていない。張が一歩前に進み、深く頭を下げた。
「お久しゅうございます。呂不韋様」
呂不韋は微かに笑い、手を軽く上げた。
「よい。久しいな、張。そちらの若者は?」
清は軽く頭を下げる。「巴蜀の者、清と申します。呂明殿とは商いを通じて縁を持ちました」
「巴蜀の侠客か……ふむ、なるほどな」
呂不韋はしばし清を観察するように見つめた後、張に視線を戻した。
「さて、息子が何を考えているのか、聞かせてもらおうか」
張は懐から呂明の書状を取り出し、恭しく差し出した。呂不韋はそれを受け取り、火の灯りの下でゆっくりと目を走らせる。やがて静かに笑みを浮かべた。
「……まったく、大したものだ。漢中を商業の地として確立しつつあるとはな。だが、政が許すと思うか?」
「それゆえ、呂明様は嬴政様への報告の仕方を慎重に考えておられます。御身の見解を伺いたいと」
呂不韋は目を閉じ、一呼吸置いた。
「嬴政は容赦せぬぞ。己の天下を盤石にするためならば、私を切り捨てることも厭わぬ。商人が力を持つことも、本来の彼の理にはそぐわぬものだ」
「ですが、漢中は秦の利益にも資するはず。呂明様は、嬴政様に対し敵対する意思がないことを示したいと考えておられます」
「そのために、私を利用しようというのか?」
張は息を飲んだが、呂不韋は静かに笑った。
「それでよい。私がまだ役に立つなら、存分に使うがよい。しかし、嬴政が真に恐れるのは何か、それを見誤るな」
「……権力でしょうか」
「そうだ。商業がいかに利益を生もうと、それが政治を脅かすと見なされれば、容赦なく刈り取られる。嬴政に報告する際は、商いをもって国を強くするという姿勢を示せ。決して、独立の意志があると思わせてはならぬ」
「心得ました。では、どのような書状がよいでしょう?」
「第一に、漢中が秦の物流の要衝となることを強調せよ。第二に、現地の安定こそが税収を増やし、民を富ませるという理を説く。第三に、商人が軍と敵対する存在ではないと明確に示すのだ」
張は深く頷いた。
「呂明様にお伝えいたします」
呂不韋はふっと目を細め、炎の揺らめきを見つめた。
「それとな、張」
「はっ」
「呂明には、商人であることを忘れるなと伝えよ。政治を理解せねば商はできぬが、決して権力の座を求めるな、と」
張は、その言葉の重みを噛み締めながら深く頭を下げた。清もまた、呂不韋の言葉の奥にあるものを感じ取っていた。
呂不韋は微かに笑い、ゆっくりと椅子にもたれかかった。
「行け。そして、息子に伝えよ。商いの道を貫け、と」
張と清は静かに一礼し、その場を後にした。