第三十六話 使者の旅路
第三章 離乱興商編、開始です。
呂明が漢中の街を歩くと、賑わいが以前とは比べものにならないほど増していた。商店が立ち並び、道を行き交う人々の表情は明るい。特に石鹸作りが軌道に乗り、近隣の市場でも評判になり始めていた。
そんな中、咸陽からの使者が訪れた。届けられた文には、呂不韋の立場が危うくなりつつあることが書かれていた。
「嬴政が直接、大鉈を奮っているようだ……」
呂不韋の側近たちが次々と失脚し、彼の発言力は著しく低下している。嬴政は、着実に呂不韋の影響力を削ぎにかかっているようだ。
呂明は目を細め、考え込んだ。呂不韋の影響力が弱まるということは、秦国内の政治的な均衡が崩れることを意味する。呂明自身、呂不韋の庇護を受けていたわけではないが、彼の存在が秦の安定に寄与していたのは間違いなかった。
「この動きが加速すれば、商人への締め付けも強まるかもしれないな……」
呂明は天秤を傾けながら、目の前の選択肢を考えた。秦の内政が混乱すれば、商業にも影響が出る。一方で、この機会を利用すれば、漢中の自立性をより確立することも可能だ。
「楚との交易を進める必要があるな」
ちょうどその時、項季がやってきた。
「呂明殿、楚との貿易についてですが、南のほうで不穏な動きがあります。楚の王族の間で後継者争いがあり、それが交易にも影響を及ぼしているようです」
「ふむ……混乱は商機でもあるが、慎重に進めなければならんな。どの勢力と繋がれば最も得策か、調べを進めてくれ」
呂明は、秦の内政と楚の動向を天秤にかけながら、自らの進むべき道を探った。巴蜀の影が伸びる中、漢中が生き残るための策を講じなければならない。
そして、呂不韋の運命が大きく揺らぐ中、呂明の商人としての真価が試されることとなる。
翌日、呂明は書斎に座り、筆を走らせる。嬴政への報告、そして父である呂不韋の状況確認。どちらも慎重を期す必要があった。
(漢中を手に入れ、生産拠点は確保した。だが、巴蜀が無法地帯といえども、秦の領地に変わりはない。報告の仕方を間違えると逆賊扱いに仕立て上げられ、ここを取り上げられることも十二分にある)
「張、これを託す。お前には、まず河南へ行ってもらう」
呂明は家宰の張に二通の書状を手渡した。張は書状を受け取りながら、静かに頷く。
「畏まりました。呂不韋様にはどのようにお伝えすればよろしいでしょうか?」
「まずは漢中の現状を報告し、我々が安定を図っていることを伝えよ。そして、嬴政に報告する手立てについて、父上の意見を聞きたい」
「承知しました。しかし、私一人で河南まで行くのは危険かと……」
張がそう言いかけたところで、部屋の扉が静かに開いた。そこに立っていたのは、青龍帮の頭領・清だった。
「私が同行しよう。道中の護衛として、そして必要なら情報収集も引き受ける」
呂明は微笑みながら頷いた。
「頼む。河南はまだ父上の影響が残っているとはいえ、油断はできない。清、お前の侠客としてのつながりを活かして、洛陽周辺の状況も探ってほしい」
「承知した。では、すぐに支度を整える」
張と清は深く一礼し、部屋を後にした。
その日の夕刻、二人は漢中を出立した。馬を駆り、まずは洛陽を目指す。洛陽はかつて栄えた王都であり、今もなお商業の要衝として機能していた。
夜が更ける頃、一行は洛陽近郊の小さな宿に泊まることにした。張が馬を繋いでいる間、清は宿の主人に声をかける。
「最近、河南の様子はどうだ?」
主人は周囲を見回し、小声で答えた。
「秦の役人が増えてな。呂不韋様の屋敷の周りも厳しく監視されている。特に誰かが屋敷を訪れると、すぐに報告が行くようだか、まだ呂不韋様を慕う者も少なくない」
「なるほど……」
清は考え込む。呂不韋が完全に力を失ったわけではない。しかし、動きづらくなっているのも事実だった。
「張、明日は呂不韋の旧臣がいるという茶屋に行く。そこでもう少し情報を集めよう」
「承知しました」
翌日、二人は洛陽の街に入り、指定された茶屋へ向かった。そこには数人の男たちが談笑していたが、清の姿を見ると、そのうちの一人が目を細めた。
「巴蜀の侠客が何の用だ?」
清は静かに杯を傾け、ゆっくりと言った。
「呂不韋様に関する情報を求めている。彼の安否と、動けるかどうかを知りたい」
男はしばらく沈黙した後、低い声で答えた。
「呂不韋様は無事だが、外部と自由に連絡を取るのは難しい。だが……お前たちが彼の元へ向かうなら、手引きできるかもしれん」
清と張は目を見合わせ、頷いた。
「助かる。今夜、手引きを頼みたい」
こうして、二人は呂不韋との接触に向けて動き始めた。漢中の未来を左右する交渉は、すでに始まっていた。
20時に三十七話を公開予定です。




