閑話 商と治の狭間で
夜の帳が下り、漢中の街は静けさに包まれていた。だが、市場の片隅ではまだ幾つかの燈火が揺らめいている。商人たちが帳簿を広げ、計算を終えぬまま眠気に襲われている様子が窺えた。
呂明は一人、街を歩いていた。
わずかな間に変わった光景に、彼は改めて驚かされる。かつて混乱と恐怖に支配されていたこの地が、今では活気を取り戻しつつあった。
奴隷たちは解放され、店を構えたり、職を得たりしている。塩や鉄器の流通も再開し、交易路の整備も進んでいた。石鹸作りも始まり、早くも評判を呼びつつある。
だが、それらの変化を目にしても、呂明の心にはまだ重いものが残っていた。
「私は……本当にこの街を治めるべきなのか?」
彼は独りごちた。
自分は商人だ。利益を追求し、秤を傾けることで富を生むことに長けている。
だが、統治とは異なるものだ。富を得るだけではなく、人を守り、土地を安定させねばならない。商人のやり方では限界があるのではないか——。
思考を巡らせるうちに、彼の足は自然と市場の入り口に向かっていた。
そこには、日中に見かけた老人がいる。市場で見た老人は、解放された奴隷の一人で、呂明が始めた石鹸を売る小さな屋台を営んでいた。
「お若いの、まだ起きていたのか?」
呂明は笑みを浮かべ、屋台の前に腰を下ろした。
「眠れなくてな。少し話を聞かせてくれないか?」
老人は湯気の立つ茶を差し出しながら、微笑んだ。
「何を聞きたい?」
「この街は、これからどうなると思う?」
老人はしばらく黙考した後、ゆっくりと口を開いた。
「戦に苦しめられ、飢えに喘いできたこの街が、やっと新しい時代を迎えようとしている。だが、新しい時代が良いものになるかどうかは、これからの営み次第だろうな」
呂明はその言葉を反芻するように頷いた。
「俺にできることはあるのか?」
「そりゃあ、あるとも」
老人は笑った。
「あんたが商いを知るなら、この街を豊かにする道も分かるだろう? 飯を食えなければ人は生きていけない。だが、それだけじゃない。安心して暮らせるようにしなければ、人は根を下ろせん。金が回るだけじゃ足りない。そこに思いが通わなければ、街はすぐにまた荒れるさ」
呂明は茶碗を手の中で転がしながら、ふっと息をついた。
「思い……か」
彼の脳裏に、呂不韋の言葉が蘇る。
かつて呂不韋に言われた『金は天下を巡る血であり、商はそれを循環させる心臓だ』という言葉が、今になって呂明の胸に深く響いた。
単に利益を追求するだけでなく、人々の生活を支え、社会を安定させることこそが、商いの本質なのかもしれない
商いの本質は、単に金を生むことではない。それは人と人を繋ぎ、土地を豊かにし、ひいては安定した社会を築くことに繋がる。
呂明は静かに茶を飲み干した。
「俺は、やるべきことをやるさ」
老人は満足そうに頷いた。
街の夜はまだ更けていたが、呂明の胸には、一筋の光が差し込んでいた。
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