第三十五話 漢中の礎
呂明は高台に立ち、眼下に広がる土地を見渡していた。ここが新たな拠点となる――その名も『漢中』。
「かつてこの地は漢水の恵みを受け、商業と農業の要所として栄えていた。ならば、再びその名を掲げ、この地を活気ある街にする」
集まった人々はざわめいた。呂明の言葉には力があり、沈んでいた彼らの心に灯をともすようだった。
まず、農地の再生を急がねばならない。呂明は新たに農地を開墾した者は三年間税を免除すると宣言し、広く開墾を促した。これは疲弊した農民たちにとって、大きな希望となった。
「新たにこの地を耕し、作物を育てる者には、三年間の税を免除する。生きるための糧を手にし、その収穫で生活を立て直してほしい」
農民たちは互いに顔を見合わせ、次第に喜びの声が広がっていく。厳しい現実の中で、明確な支援が示されたことが、彼らの心を動かした。
次に、呂明は新たな産業の導入を提案した。
「もうひとつ、皆に提案したいことがある」
そう前置きし、呂明は懐から取り出した白い塊を皆に見せた。
「これは石鹸というものだ。身体を清潔に保ち、病を防ぐ力がある」
人々の間に興味と疑問の声が交錯する。
「そんなもので病が防げるのか?」
「実際に効果があるのなら、欲しいものだが……」
呂明は静かにうなずいた。
「この石鹸の作り方は、かつて旅の途中で学んだものだ。加えて、項季が楚で同様のものを見たことがあるという。その知識をもとに、この地で製造を試みたい」
項季が前に進み出て頷いた。
「楚では富裕層の間で使われていました。確かに効果がありましたが、高価なものでした。ですが、ここで生産できるのなら、広く普及させることも可能でしょう」
「そうだ。さらに、これを交易品とすれば、新たな収益源にもなる」
人々は呆気に取られたように呂明を見つめていたが、次第にその提案の意義を理解し始めた。衛生と商業の両面で利益をもたらす産業――それが石鹸作りだった。
「この仕事は、孤児や女性、老人たちに担ってもらいたい。今まで労働力と見なされなかった人々にも役割を持ってもらうことで、街全体の生活が豊かになる」
最初は戸惑いがあったものの、次第に希望の色が見え始めた。特に、女性たちは新たな仕事の機会に目を輝かせた。
「もちろん、すぐに大規模にはできない。まずは試験的に始める。うまくいけば、徐々に規模を拡大していこう」
呂明の慎重な姿勢が、人々に安心感を与えた。
次に、治安の維持について話を進めた。
「街の秩序を守るため、青龍帮の協力を得る」
この言葉に、一部の者は驚いたように顔を見合わせた。彼らはもともと半ば無法者だったが、呂明の説得により、街の警備を担うことになったのだ。
「報酬として、一定の金銭を支払うほか、警備組織の正式な役割を与える。お前たちの力を、この街のために使ってもらいたい」
青龍帮の者たちは一瞬驚いたが、次第に納得したようにうなずいた。彼らにとっても、秩序の中で正当に生きる道が開けたのだ。
こうして、漢中の再生に向けた大きな方針が決定された。農業、産業、治安――すべてが動き出そうとしていた。
呂明は改めて空を仰いだ。
「ここを、必ず繁栄する地にする」
彼の言葉は、これからの未来を見据えた決意に満ちていた。