第三十三話 蛇矛を継ぐ者
朝焼けが漢中の町を赤く染める頃、呂明たちは既に行動を開始していた。奴隷市場の周囲には、劉淵の私兵が警戒の目を光らせている。作戦の要は、密偵たちによる陽動だった。
市場の中心には高く組まれた木製の台があり、その上で奴隷たちが競りにかけられるのが常だった。今日もまた、多くの者が無慈悲な取引の対象として並ばされることになる。項季の姿も、その中にあった。
「始めろ」
呂明の静かな命令と共に、市場の片隅から突然煙が立ち上った。密偵が事前に仕込んでおいた煙幕が弾け、市場はたちまち視界不良に陥る。同時に、別の密偵が奴隷たちの縄を素早く切り始めた。
「逃げろ!」
誰かが叫び、囚われていた奴隷たちが一斉に動き出す。混乱した警備兵たちは次々と駆け寄るが、視界を奪われた上に、どこからともなく飛んでくる投石に翻弄される。
雷厳と岳春も動いた。雷厳は群衆の中を縫うように駆け、岳春は市場の屋根の上を疾走する。
「岳春、頼んだぞ!」
「任せとけ!」
岳春は屋根から飛び降りると、警備兵を蹴散らしながら、呂明の元へと向かった。
呂明は混乱の中、一人の男の鎖を断ち切った。項季——楚の元商人であり、劉淵に人生を狂わされた男。
「お前……?」
項季は驚いた表情を浮かべたが、すぐに呂明の目を見つめ、その意志を読み取った。
「恩に着る。お前たちの力になろう」
彼は低く呟き、しっかりと呂明の腕を掴んだ。
「項季、お前はここで混乱に乗じて逃げ出す者たちをまとめろ。安全な場所へ誘導を頼む」
その頃、劉淵の屋敷では、怒声が響いていた。
「何事だ!?」
部下が慌ただしく駆け込む。
「奴隷市場が襲撃を受け、混乱しています!」
劉淵は眉をひそめ、拳を握りしめた。
「すぐに兵を送れ!市場を鎮圧しろ!」
しかし、それこそが呂明の狙いだった。屋敷の警備が手薄になれば、次の一手に移れる。
混乱に乗じて市場を抜けると、劉淵の私兵が次々と市場へ駆け込んでいくのが見えた。陽動は成功だ。
「雷厳、岳春、次の段階に移る。劉淵の屋敷へ向かうぞ!」
呂明は力強く言い放つと、一行は闇に紛れ、劉淵の本拠へと足を向けた。戦いの火蓋が、今まさに切って落とされようとしていた。
「行くぞ」
劉淵の屋敷では、騒ぎを聞きつけた兵たちが市場へ向かっていた。門前の警備が薄くなった隙を突き、雷厳が先頭に立ち、扉を蹴破る。
「突入する!」
屋敷の奥へと進むと、一人の男が立ちはだかった。魏正——劉淵の腹心であり、冷酷な用心棒だった。彼の手には長大な蛇矛が握られている。
「ここから先へは行かせん」
岳春が前に出た。
「面白ぇ。力比べといこうじゃねぇか!」
魏正の蛇矛が鋭く突き出されるが、岳春は体を捻ってかわし、拳を叩き込む。魏正は後退しつつも、蛇矛を振り回し応戦した。刃が風を切る音が響き、二人の戦いは激しさを増していく。
「その槍、俺がもらうぜ!」
岳春は魏正の攻撃を捌きながら、一瞬の隙を突いて蛇矛の柄を掴んだ。そして、そのまま怪力で引き寄せ、魏正の腕から蛇矛をもぎ取る。
「てめぇの得物で、てめぇを討つ!」
岳春は奪った蛇矛を豪快に振るい、魏正の胸を貫いた。魏正は呻き声を上げるが、やがて膝をつき、息絶えた。
「さあ、劉淵のところへ行くぜ!」
呂明たちは奥の間へと突入し、ついに劉淵を捕らえる。屋敷の中には逃げ惑う使用人たちの叫び声が響いていた。劉淵は恐怖に震えながら後ずさるが、もはや逃げ場はなかった。
「貴様ら……何をするつもりだ……!」
呂明は冷然と彼を見据え、静かに言った。
「これが、お前の終わりだ」
劉淵の運命が決まる時が、ついに訪れた。




