第三十話 義と理の交差点
雷厳と岳春は、呂明の提案を前に苦悩していた。
巴蜀の地は、豊かではない。農作物は乏しく、交易の道も整っていない。加えて、役人は機能せず、庶民は豪商や青龍帮のような武装勢力に怯えて暮らしている。侠客たちは義侠心と腕っぷしこそあるが、統治する力も、財を成す術も持たない。ただ悪党を追い払うだけでは、長くは持たないことを痛感していた。
「力だけじゃ、守りきれねぇ……」
岳春は拳を握りしめた。
「俺たちは……ずっと歯痒かったんだ」
雷厳は拳を握りしめる。彼の表情には悔しさがにじんでいた。
「義を見てせざるは勇なきなり、か……」
岳春が静かに呟く。
「俺たちは、巴蜀の惨状を知っている。見て見ぬふりをするのは、勇気のない臆病者と同じだ」
「だが、義だけでは生きていけん。義があっても、金も力もなければ、ただの理想に終わる。そうして多くの仲間が無念を残して死んでいった」
雷厳の声は苦渋に満ちていた。
「どんなに悪党を叩き潰しても、また別の奴らが現れる。俺たちには、根本的に変える力がねえんだ……」
「ならば、変えてみせよう」
呂明が静かに言う。
「商いで生まれる金と、交渉で築く秩序があれば、巴蜀を守る手立てはある」
雷厳は呂明を見据えた。その言葉に、一瞬だけ光を見た気がした。しかし、それは本当に侠客の在り方として正しいのか——
「俺たちの『義』は、ただ戦うことじゃねぇ」
雷厳は低く言った。
「この地に生きる人間が、安心して暮らせるようにする。それが本当の侠じゃねぇのか?」
「その通りだ」
呂明は頷いた。
「だからこそ、俺はお前たちに『義』と『理』を両立させる道を示そうとしている」
「……義と理?」
「義は、人を守るためにある。だが、理なくしては長続きしない。お前たちには力と信念がある。ならば、それを支える仕組みを作ればいい」
「仕組み……?」
岳春が呟く。
「交易を拡げ、金を得る。その金で庶民の暮らしを安定させ、青龍帮のような力任せの支配を排除する。それが、義を貫くための『理』だ」
雷厳は沈黙した。
呂明の言葉は、彼の心の奥にあった悔しさを突いていた。これまで自分たちは、ただ戦ってきた。
しかし、それでは何も変わらない。結局、豪商や青龍帮のような勢力が跋扈する状況を許してしまっていたのだ。
義を貫くために、理を学ぶ。
それは、自分たちの在り方を否定することではない。むしろ、侠客としての信念を真に貫く道ではないのか。
「……それで具体的にはどうすればいいんだ?」
雷厳はゆっくりと口を開いた。
呂明は、侠客たちと交渉を進めながら、彼らの反応を慎重に観察していた。雷厳と岳春の間には、長年の信頼関係があるように見えたが、その根底には過去の痛みが潜んでいるようだった。
「漢水までの交易路を護衛するという話だが……」
雷厳が低い声で言った。
「道中には、奴らの手が回っている可能性が高い。甘く見れば命を落とすことになるぞ」
岳春が腕を組みながら頷く。
「以前、俺たちの仲間がこの道を使おうとしたとき、消息を絶った。生きて戻った者は一人もいない」
呂明は静かに頷き、天秤の能力を使って確率を測る。結果は五分五分——
確かに危険は大きいが、完全に無謀な賭けでもない。
「黒幕の正体は、やはり……」
呂明が言いかけると、雷厳が鋭い目を向けた。
「お前も知っているのか? この地を支配しようとしている豪商、劉淵のことを」
呂明は確信を得た。劉淵——
劉淵は、この地域で絶大な権力を持つ豪商であり、裏では様々な悪事を働いている。この地の交易を独占しようとする男であり、表向きは慈善家を装っているが、その裏では多くの侠客を葬ってきた。
「劉淵は、交易路を支配するためなら手段を選ばない。侠客たちの仲間が命を落としたのも、そのせいだろう」
呂明はゆっくりと語った。
「だが、だからこそ、彼に立ち向かう価値があるのでは?」
雷厳の眉が動いた。
「……言葉だけなら簡単だ」
「俺は言葉だけで勝負するつもりはない。条件を提示する」
呂明は一呼吸置いた。
「劉淵を出し抜く策がある。だが、そのためにはお前たちの力が必要だ」
岳春が目を細める。
「策とは?」
呂明は微笑んだ。
「情報収集は、侠客たちのネットワークを使い、劉淵の動向を監視する。資金源を断つ策略は、劉淵が取引をしている悪徳商人の情報を入手し、取引を妨害する。」
侠客たちは互いに目を見交わし、しばし沈黙が流れた。やがて、雷厳が深いため息をつく。
「……面白い。お前の策が本当に劉淵に一矢報いるものなら、俺たちは乗る」
岳春も頷いた。
「だが、失敗すれば、ただでは済まないぞ」
呂明は笑みを浮かべた。
「その覚悟はできている」
こうして、呂明と侠客たちは、劉淵に対抗するための第一歩を踏み出した——。