第三話 呂不韋の理念、呂明の疑問、商人の道を志す
朝陽が部屋に差し込み、呂明は昨日の市場での出来事を静かに思い返していた。
昨夜、呂不韋からの厳かでありながらも温かい言葉が、彼の心に刻まれた。
しかし、幼いながらも持つ前世の論理と、この世界の感覚との間に、彼の内心は激しく揺れ動いていた。
呂不韋の言葉が、昨日の教えとともに鮮明に蘇る。父は低く、しかし威厳ある声でこう語った。
「この絹は、ただの布ではない。もしこれが『王宮専用』と噂されるならば、その需要は飛躍的に増す。物の価値は、ただの実体的な質量ではなく、人々が『良い』と信じる力、すなわち信頼と噂で決まるのだ。そして、その信頼と噂を創り出すことこそ、商人としての才覚なのだ」
呂明は、父の手に取る品々―滑らかな絹、芳醇な香油、そして重みのある銀貨―に触れながら、心中で問いかけた。
「でも……どうして噂なんかが生まれるのだろう? ただその質が良いから、皆が良いものだと判断するだけじゃないのか? 噂で価値が吊り上げられるというのは、まるで消費者を騙すようなものではないのか?」
その問いは、彼の幼いながらも既に成熟した感性から湧き出たものだった。
前世で数字と論理に支配されていた記憶が、今は実際に人々の感情が作り出す不思議な力として彼の前に現れていた。
呂明の瞳には、戸惑いとともに、確固たる疑問と反抗心が宿っていた。
昼下がり、呂不韋は呂明を連れて再び市場へと向かった。市場は、昨日の情景をさらに鮮明に思い起こさせるほどに賑わい、多種多様な品々が人々の手に渡っていた。売り子の声、活気ある取引のざわめき、そして市場特有の匂い―すべてが五感に強く迫る。
呂不韋は市場の一角に立ち、丹念に香油の瓶を手に取った。その瓶からは、芳しいがどこか神秘的な香りが漂っていた。彼は呂明に向かって、改めて問いかけた。
「見よ、この香油。もしこれが『聖なる儀式用の秘伝の技』と噂されたならば、その需要は飛躍的に増すであろう。だが、これ単体ではただの香油に過ぎぬ。重要なのは、人々の信頼と噂を如何にして作り出すかだ。これこそが、商いの真髄であり、商人としての真の才覚というものだ」
その父の言葉に、呂明は市場の喧騒の中で、さらに深い疑問とともに胸に決意を刻んだ。
彼は、自分の前世の理論だけでは、この世界の価値観は捉えきれないと痛感する。
商売の現場で、人々の心がどのように動いているのか、直接感じ取らなければならないという使命感が芽生えたのだ。
呂明は、これから市場での体験を通して、自らの商才を磨き、真に人々の心を動かす力を身につける決意を新たにする。
そして、その先に待つ、ただ物を売るだけではない、経済の力でこの乱世を変えるという夢に向け、静かに一歩を踏み出した。