第二十二話 去りゆく影、揺るがぬ志
嬴政は早足で王宮に戻り玉座につくと山と積まれた奏上文を読み始めた。暫くして傍に控えていた李斯が低く呟いた。その言葉に、嬴政は視線は竹簡から逸らさずに答える。
「なぜ、大王はあのような選択を?」
「……なぜだと思う?」
嬴政が戯けて答える。
「私なら、まだ呂不韋を活かして利用します。彼には知略も、経験も、人脈もある。生かしておけば、必ず役に立つでしょう。」
「そうだな。」
嬴政はかすかに笑った。
「だが、彼は野心を捨てられなかった。私がどれだけの代償を払って王座に就いたのか、理解しなかったのだ。」
嬴政の瞳が細められる。冷徹な光を宿したまま、彼は付け加えた。
「私は邯鄲に人質として囚われていた。あの街で生きるために、私はあらゆるものを捨てねばならなかった。家臣の情も、母の愛も、信じる心さえも。」
「大王……。」
「お前は何日も食べるものもない中で、焼いた芋虫を天の恵みだと思って齧り付いたことはあるか?その男は、私の国を奪い、私を操り続けるつもりだった。私の天下を、自分の物にしようとした。いいか?私から奪おうとする奴に容赦はしない!だから……」
そういう彼の表情には、怒りと、そしてどこか複雑な感情が宿っていた。呂不韋がいなければ、自分は咸陽に帰ることもなかった。だが、その存在が大きくなりすぎた今、放っておけば自分の天下を脅かすことになる。李斯はその横顔を見つめながら、静かに頭を垂れた。
「大王のご決断、肝に銘じます。」
咸陽を後にした呂不韋の屋敷は、日に日に寂しさを増していた。
豪奢な装飾も少しずつ外され、かつて繁栄を誇った大邸宅は、今や冷たい風が吹き抜けるだけの空間と化していた。
そんな中でも、家人たちは変わらずに掃除を続けていたが、かつての活気は失われ、戸惑いと虚無感に満ちた顔をしている。ある者は埃ひとつない床を何度も同じところばかり掃き、またある者は庭を見つめたまま箒を動かそうとしない。
その様子を門前から見つめていた呂明は、手のひらに汗を感じながら、声を張り上げた。
「皆、ここまで本当に世話になった!」
家人たちの目が一斉に彼に向けられる。呂明は少し震えた声を押さえながら、続けた。
「父は去ったが、お前たちのこれまでの尽力は決して無駄にはしない。咸陽を出る前に、父からの感謝の気持ちとして、皆にこの屋敷にある私財を分け与えるよう言付かっている。」
家人たちの表情が驚きに変わる。
「……旦那様が?」
その問いに呂明は頷いた。
「父上は、心の奥底ではお前たちの忠義に感謝していた。しかし、それを口にすることは決してなかった。それが父という男だった……。だからせめて、これまでの礼を受け取ってほしい。」
沈黙が流れた。やがて、一人の老僕が震える声で言った。
「旦那様が……本当に、そう仰ったのですか?」
「……ああ。」
呂明は懐から呂不韋が残した書簡を取り出した。それは僅か数行の簡潔な文だったが、その意味は重かった。
『長年の忠勤に感謝する。自らの道を選び、然るべき生を送れ』
家人たちはその文を読み、涙を流しながら深々と頭を下げた。
「ありがたきお言葉……。明様も、どうかお達者で」
彼らの涙に、呂明は強く拳を握りしめた。
「皆、元気で……。」
彼の声はかすかに震えていた。しかし、それ以上言葉を発することはなかった。くるりと背を向け、屋敷を後にしようとする。
その時、家宰の張が一歩前に出た。
「……これからどうなさるおつもりで?」
「俺は、もう誰かの庇護のもとで生きるつもりはない。商いをする」
呂明はきっぱりと言い放った。
「商い?」
「ああ、一人でできる商売から始めるさ。まずは巴蜀だ。」
「巴蜀……?」張は訝しげに聞き返した。
呂明は懐から、前世から持ち越した唯一の遺物──小さな天秤を取り出して見つめた。
「巴蜀は地形が険しく、外敵の侵入を防ぎやすい。さらに塩や薬草、茶の産地でもある。人の流れを読めば、大きく商いをすることができる。まずはあそこで基盤を築くつもりだ。」
彼の言葉に、張は目を細め、深く頷いた。
「……わかりました。」
張はそれ以上何も言わなかった。ただ、じっと呂明の目を見つめた。
「お前も、どうするか考えておけよ。」
呂明が声をかけると、張はふっと微笑んだ。
「では、私もお供いたします。……旦那様が帰ってくる時、私もその場にいたいので」
呂明はその言葉を噛みしめながら、小さく笑った。
「頼んだぞ、張。」
ここからが、彼の新たな旅の始まりだった。
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