第二十一話 咸陽の別れ
咸陽の城門が開かれると、冷たい朝の空気が押し寄せた。白み始めた空に、東の端から陽がゆっくりと昇る。城壁の影が長く伸び、まだ薄暗い街路には商人や役人たちが慌ただしく行き交っていた。
呂明は群衆の中に立ち、城門の向こうに消えていく呂不韋の馬車をじっと見つめていた。黒い幌が朝日を反射しながら、塵を巻き上げて進んでいく。城門の向こう、咸陽の外に広がる道はどこまでも続いているように見えた。もはや、この国の実権を握ることはない男の姿が、ゆっくりと遠ざかっていく。
その様子を、もうひとりの若き王が、王宮の高楼から無言で見下ろしていた。嬴政は腕を組み、かすかに目を細めた。
「力のない理想など、何の価値もない。」
それは昨夜、呂明に言い放った言葉だった。
嬴政は幼い頃から、生き延びるために力を求め続けてきた。人質として過ごした邯鄲の薄暗い日々、血塗られた宮廷の争い。誰かの慈悲を待っていたら、いつか自分が消える。だからこそ、彼は支配する側にならなければならなかった。
「呂不韋の時代は終わった。これからは、私の時代だ。」
呂明には聞こえないほどの小さな声で、嬴政はつぶやいた。彼の背後に佇む李斯が、静かに頷いた。
呂明はふと顔を上げた。城楼の上の人影を見上げる。視線の先、遠く小さな影が揺らいでいた。嬴政だろうか、と彼は思った。あの王が何を考えているのか、今の自分にはわからない。ただ、一つだけ確かなことがあった。
(俺は、俺の道を行くしかない。)
呂不韋の存在が消えた今、彼の背中を追うだけでは何も生まれない。それならば、自分で新たな道を作るしかない。だが、どうやって?
彼は城門をくぐり、雑踏の中へと足を踏み入れた。
咸陽の市場は、いつもと変わらぬ活気に満ちているように見えた。だが、よく目を凝らせば、街の空気が微妙に変わっていることがわかる。商人たちはどこか落ち着かず、普段なら笑顔を絶やさない者たちでさえ、ひそひそと話し合っていた。
呂不韋の失脚は、彼らにとっても大きな衝撃だったのだろう。官僚としての庇護がなくなった今、誰が新たな市場の覇者となるのか、それともすべてが嬴政の掌握下に置かれるのか——。
呂明は歩みを止め、屋台の前に立った。乾燥した果物や布地が積まれた店先で、商人たちが顔を寄せ合っていた。
「聞いたか? 相国様が咸陽を去られたそうだ。」「これからどうなる……? 市場は混乱するだろうな。」
「そうは言っても商いを続けるしかないだろう。だが、物資の流れが変われば、何が値上がりするかわからん。うちの米も、今後どうなるか……」
呂明は、すっと耳を傾けた。市場が混乱している今こそ、商機が生まれる。彼の視線は、ある商人の手元に注がれた。彼は、呂不韋派の貴族向けに高価な香辛料を卸していた男だ。彼の表情には、焦燥がにじんでいる。
(呂不韋派がいなくなれば、需要は一時的に落ちる。だが、このまま値崩れするとは限らない。)
呂明は静かにその場を離れ、改めて決意を固めた。呂不韋の時代は終わった。しかし、自分は終わらせない。商人として、新たな時代の秤を揺らす者になる。
彼の商いの旅は、ここから始まる。