第二十話 覇者の条件
市中の高級茶屋。個室の障子が静かに開かれると、そこには嬴政が佇んでいた。ろうそくの灯が揺れ、影が壁に長く伸びている。
「よく来てくれた。そこに座れ、呂明よ」
嬴政の声音は低く、しかし静かな圧を帯びていた。呂明は一礼し、正面に座る。
「そなたに問いたいことがある」
嬴政は湯を注ぎながら口を開いた。
「強さとは何か」
呂明は嬴政の視線を正面から受け止めた。そして、静かに答える。
「強さとは……人の上に立つ者が持つべき、徳の力です」
嬴政は微かに笑った。
「徳か。呂不韋もよくそう言っていたな。しかし、徳だけで天下を治められると思うか?」
「徳がなければ、人はついてきません。いずれは瓦解するでしょう」
「愚かな理想論だ」
嬴政の声音が僅かに低くなる。
「私は邯鄲で人質として育った。そこでは、徳も理想も、何の役にも立たなかった。ただ力こそが全てだった」
呂明は嬴政の目の奥に、一瞬だけ怒りの色が灯るのを見た。
「そなたは何も知らぬ。生まれながらに飢え、死の恐怖に晒されたことはあるか? 信じていた者に裏切られたことは? 何の力もなく、ただ待つことしかできなかった者の気持ちがわかるか?」
呂明は口を噤んだ。嬴政の言葉には、彼の過去の苦悩が滲んでいた。
「私は理想のために戦っているのではない。私が生き抜いた世界では、強き者が生き、弱き者が淘汰される。それが真理だ」
嬴政は続けた。
「だからこそ、私は秦を武力で統一する。法をもって民を治める。それが秩序であり、真の強さだ」
「しかし……」
呂明はなおも食い下がる。
「法が間違っていたら? 王は天下の理を体現する者ではないのですか?」
嬴政は冷たく笑った。
「天下の理? 誰がそれを決める? そなたか? 呂不韋か?」
「それは……」
「曖昧な理想論では国は治まらぬ。誰かが決めねばならぬのだ。それが私の役目だ」
嬴政の声音には確信があった。
「私は私の正義を貫く。それが、この国に必要な強さだからだ」
呂明は静かに嬴政を見つめた。嬴政は理想ではなく、己の経験から世界を見ていた。そして、その世界では力こそが正義だった。
「……では、私も問います」
嬴政は黙って呂明を見た。
「あなたの考える正しさとは何ですか?」
嬴政は少しの間、呂明を見据え、そして静かに答えた。
「正義とは、勝者が決めるものだ」
部屋の中に、ただ湯の湯気が静かに立ち昇っていた。