第十六話 策を巡らす者
長信宮の奥深く、沈香が静かに薫る。
燭台の炎が揺らめき、彫刻を施された朱塗りの柱に影が伸びる。
その奥に、秦の丞相・呂不韋はいた。
対面するのは、未だ威光を失わぬ皇后。
「……不韋」
囁くような声には、まだ余裕があった。
だが、それは錯覚だ。
呂不韋は、己の置かれた状況を冷静に見つめていた。
かつて彼は、この女を手中に収めた。王の寵姫を自らの計略の中に置き、国を動かす力とした。だが今、彼女は秦王の母となり、嫪毐を寵愛し、己を試すように揺さぶりをかけてくる。
「後宮にまで政が持ち込まれるとは……疲れますな」
呂不韋はあえて目を伏せ、静かに言葉を選ぶ。
一歩でも誤れば、全てが崩れる。
後宮を掌握していた日々は遠くなった。
若き王・嬴政が力を蓄え、己の影響力を削ごうとしているのを感じている。
皇后の背後にいる官僚たちも、かつての忠誠を揺るがせていた。皇后派の影響下にあった官僚たちは、嬴政の台頭と呂不韋の権勢を天秤にかけ、日和見を決め込んでいる。具体的には、嬴政に情報を流すもの、呂不韋にすり寄るもの、また両方に良い顔をしようと画策するものなど、保身に走るものが目立つ。
「そなたは、私をもう見ていないのね?」
皇后の言葉が、沈香の煙のように絡みつく。
かつてのように彼女を抱けば、それで済むのかもしれない。
だが、呂不韋は知っていた。
この女は、かつての「女」ではない。
かつては、彼の権力の一部だった。
しかし今は、感情に支配された「母親」として動いている。
それを宥めすかし、逃げるには――どうするべきか。
そこで彼は「時間を稼ぐ」ための一手を考える。
「私は、この国を乱すつもりはない」
静かに言葉を紡ぐ。
それが彼の「嘘」として通じるかどうかは、皇后次第だ。
外では、特に市場に異変が起き始めていた。
皇后派の商人たちが不審な動きを見せていた。取引を控える者、密かに嬴政側と接触を試みる者が現れ始めている。また、呂不韋派の商人たちも、嬴政の動きを警戒し、今後の動向を注意深く見守っている。
そして、嬴政はその隙を突くかのように、民の動向を探り、情報を集め、着実に自らの勢力を拡大しようとしている。配下の官僚を各地に派遣し、市場の情報を収集するとともに、呂不韋派の官僚の不正の証拠を掴もうとしている。その動きは商人たちの間にも噂として広がり、呂不韋派の商人たちの不安を煽っていた。
――そして、彼の視線の先には、まだ若き息子・呂明がいる。
この国で、金と知恵を持ち、商いを制する者が生き残るのだ。
呂不韋は、息子に道を残すため、静かに次の手を打とうとしていた。
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