第十五話 揺らぐ権勢――嫪毐事件が巻き起こす政治の波紋
朝霧が都の城下町を静かに覆う中、宮中では昨夜の嫪毐事件の噂が重く流れていた。
嫪毐は、見た目がいいだけの愚か者とされがちだが、実はその狡猾さで、後宮勢力に大きな混乱をもたらす「毒」として働いているという。
噂によれば、嫪毐は皇后と密通し、その存在を利用して自らの勢力を拡大し、さらには呂不韋に対する挑戦の材料として用いられているというのだ。
一方、皇后勢力に属していた有力者や官僚、商人たちは、連座を恐れて次々と皇后との結びつきを解こうと動き出していた。かつては皇后に忠誠を誓い、彼女の寵愛を享受していた者たちも、今やその顔色をうかがいながら、呂不韋や嬴政へと舵を切るための策を練っていた。
都の一角、古びた茶屋の奥の一室では、数名の官僚と大商人たちが、低い声で密談をしていた。室内は、木の香りと、微かに立ち込める茶の匂い、そして燭台の炎が作り出す陰影に包まれ、重苦しい空気が漂っていた。
「呂不韋の影響力は、かつて秦の基盤を築いたが、今や嫪毐の暴露を機に、皇后勢力は次第に自らの安全を顧み始めている。連座を恐れて、かつての盟友たちも次々と手を引いている。これでは、我々既得権益が脅かされることは避けられぬ」
と、ひとりの官僚が冷静に語る。
さらに別の官僚が続けた。
「嬴政は、この混乱を利用して、国の隅々から情報を集め、次第に自らの勢力を拡大しようとしている。彼の目的は明確だ。呂不韋が築いてきた秩序を打破し、天下を掌握するための足場を固めることにある」
その言葉を聞いた商人たちは、普段の取引が急に冷え込むかのように、肌に冷たい汗を感じた。彼らは、いつもならば慣れ親しんだ市場のざわめきが、今や権力者たちの暗躍によって大きく揺れる様子に、内心で恐れを抱いていた。
――その夜、呂明は父・呂不韋の書斎に呼ばれ、燭台の柔らかな光が古文書や玉飾りに映える中、父は深い憂いを湛えた声で語り始めた。
「明、我が歩んできた道は、ただ商才を振るうだけでなく、秦の丞相として国の安定を守るため、金銭と時間を惜しまず投じたものだ。政治とは、民を安定させ、国益を守るための知恵と覚悟の結晶である。しかし、今や嬴政は、嫪毐事件という不穏な口実を使い、我が築いてきた秩序に挑もうとしている。嫪毐――その小柄な姿は愚か者と見なされがちだが、裏では後宮勢力を混乱に陥れる見事な策略家である。彼を通じて、皇后勢力は内部から揺らぎ、かつては我々に味方していた官僚や商人たちが、連座を恐れて離反し始めているのだ」
呂明は、父の言葉に心を痛めながらも、内心で激しい不安を感じていた。
「父上……これまで、民の信頼を得るために正しい道を歩んできたとおっしゃっていました。しかし、今のこの状況は、すべてが音を立てて崩れていくような恐ろしさを伴っている。俺たちは、一体何を守ればよいのか……」
呂不韋は、呂明の瞳をしっかりと捉え、重い口調で続けた。
「明、商いは民の信頼と、国の未来を左右する大いなる力だ。しかし、権力の駆け引きは、正道をも狂わせる危険を孕んでいる。嬴政は、嫪毐事件を利用して、私の力に挑むと同時に、皇后勢力の弱体化を狙っている。かつて私と皇后との間には深い情愛があったが、今はそれも過去のもの。私は、国の安定と未来を守るため、己の信念を貫く決意を固めた。そのためにも、これからお前は、民の声を聞き、正しい商いの道を見極めなければならぬ」
窓から差し込む月明かりが、書斎の古びた壁に柔らかく映り、呂明の顔には父の言葉と、宮廷内で感じた陰謀の重みが浮かんでいた。
「俺は、ただ流されるだけの者ではない。父上が築いてきた全て―金、時間、そして国益―を守るため、必ずやこの混沌を乗り越え、正義ある商いを貫いてみせる」
呂明は、固い決意を胸に新たな覚悟を抱き、これから待ち受ける試練に立ち向かう準備を始めた。その声は、書斎の静寂に深く響き、未来への一歩として、彼の内面に刻まれていった。




