第百三十九話 沈黙の秩序
童庵の庭先に、風が通り抜けた。
かすかな声が、どこからともなく聞こえてくる。子どもたちの童歌だ。
――花は散り、名は消え、
川は流れて国を洗う、
声を出すな、泣くなかれ、
聞く耳あるは、石ばかり。
その調べは静かで、しかし胸を刺すようだった。
呂明は手を止め、香油の瓶を磨く指先を見つめた。
瓶の中の油は透き通っている。それはまるで、濁りを許さぬ国の姿を映しているかのようだった。
童庵を出て市を歩けば、誰もが無言で仕事に没頭していた。
市人は正確に秤を使い、定められた額で取引を行う。
商人が賄賂を求めることも、役人が私腹を肥やすこともない。
――だがその代わりに、笑う者も、歌う者も、ほとんどいなかった。
「法の国は、清いほどに冷えるものだな」
呂明は独り言のように呟いた。
背後から低い声が返る。
「水清ければ魚棲まず。――か」
声の主は張良だった。
彼はかつての韓の衣を脱ぎ、旅塵にまみれた姿で立っていた。
頬はこけ、眼差しには深い怒りと哀しみが交じる。
「嬴政は韓を救うと言った。だが救われたのは制度で、人ではない」
張良は市を見渡した。
そこには秩序があり、秩序の中に沈黙があった。
子どもたちの笑い声が消え、代わりに「規則遵守」の声だけが響く。
「法は人を縛る。だが今は、人が法に縛られすぎている」
呂明は頷くでも否定するでもなく、ただ沈黙した。
彼の掌の中の小さな天秤が、わずかに揺れる。
金属の皿が微かに音を立て、日差しを反射した。
右に傾けば「理」、左に傾けば「情」。
どちらにも極めれば国は歪む――それが呂明の信条だった。
「秦王は、法のもとに平等を望まれた」
「だが、その平等は声を奪う平等だ」
「……」
「我が韓の民は、笑うことすら罰せられる。祭を行えば“旧国の情念を煽る”とされ、歌を口ずさめば“反徳の音”とされた」
張良の拳が震える。
彼の目の奥に、かつての都・新鄭の炎がよぎった。
その炎は国を焼いたが、民の心までは焼き尽くせなかった。
今、嬴政の法はその“心”を狙っている。
「……嬴政がそれを望むとも思えぬ」
呂明が静かに言った。
「彼は混乱を恐れている。韓のように腐敗した国を二度と生みたくないのだろう」
「そのために、人の情まで削ぐのか?」
「理で国を立てる者の宿命だ」
呂明の声は淡々としていた。
張良はその冷静さに、かえって痛みを覚える。
「お前の秤は、いずれ人の血を量ることになるぞ」
「秤はただ、重さを示すだけだ。選ぶのは人だ」
張良は答えず、ただ拳を握りしめた。
そのまま市を背に歩き出す。
――その夜、童庵に兵が踏み込んだ。
嬴政の命によるものだった。
“反徳の歌”を広めた者がいるとの報が、咸陽へ届いたのである。
兵士たちは子どもを追い立て、書物を焼いた。
火の粉が闇に舞い、呂明は立ち尽くした。
「子らの歌が、罪となるのか……」
その呟きに、背後から声が返る。
「法の国では、情は罪だ」
嬴政が姿を現した。
彼の瞳は冷たく、それでいて苦渋を宿していた。
「私は民を救う。腐敗を断ち、争いを止めるために法を敷く。それが罪と言うなら――この国に正義はない」
「正義とは、民が笑えることではないのか」
呂明の言葉に、嬴政の眉がわずかに動く。
「笑いは飢えを満たすか。秩序なき笑顔が、国を滅ぼしたのではないか」
「……だが、沈黙は国を生かすのか?」
二人の視線が交錯した。
天秤の皿が震え、微かな音を立てた。
そこへ、張良が現れる。
彼の手には、焦げた童歌の断片が握られていた。
「花は散り、名は消え、川は流れて国を洗う――」
その一節を呟きながら、彼は嬴政を見据えた。
「この歌を歌った子どもたちは、罪を犯したのか」
嬴政は黙して答えない。
「ならば、法の名で裁け。だがその前に問う。
――お前は“何のために法を敷いた”?」
沈黙。
その沈黙こそが、この国の秩序を象徴していた。
嬴政は踵を返し、闇の中へ去っていった。
残された張良は、拳の中の紙片を見つめ、呟いた。
「沈黙の秩序……か。ならば私は、声となろう」
呂明がその背を見送る。
天秤の皿が、音もなく傾いた。
それは、理の国に裂け目が生まれた瞬間だった。




