第百三十七話 均される国
──水清ければ魚棲まず──
咸陽の空は透きとおるように青かった。
それは、まるで一片の濁りも許さぬ王の理そのもののように。
韓が陥落したという報せが届いた。
王宮に満ちる空気は静かで、祝宴の気配すらない。
嬴政は玉座の上から淡々と告げた。
「理が通った。それだけのことだ」
その声には勝利の昂揚も誇示もない。
ただ、正しさの確認に過ぎぬ響き。
李斯は頭を垂れ、呂明は胸の奥でかすかな違和を覚えた。
理が通ることは善いことのはずだ。
だが今の王の声音には、人の情を断ち切るような冷たさがあった。
捕らえられた韓王安が咸陽へ護送されてくる。
罪状は「秦法への不服従」。
戦ではなく法によって裁かれる王——それは異様な光景だった。
廷中には整然と並ぶ文吏たち、記録官が筆を走らせ、刑律官が条文を読み上げる。
嬴政は静かに玉座から見下ろし、まるで法の具現そのもののように動かない。
「韓王安、汝は国を治めながら法を学ばず、民を惑わせ、国を乱した。その罪、天地に容れがたし」
嬴政の声は澄んでいた。
怒号でも威圧でもない。
だが、その理路の正確さが、逆に逃げ場のない恐怖を生む。
韓王安は震える唇で問う。
「……戦に敗れ、降伏した。それでもなお、罪に問われるのか」
「法は誰に対しても等しい」
嬴政の返答は簡潔だった。
「等しさ」とは、赦しのない平等のことだ。
呂明の胸に蘇るのは、かつての韓非子の言葉であった。
——『法は人を縛るものではない。人が法を縛る時、国は立つ』。
だが今、法は完全に人の上にあった。
王安は力なく笑った。
「……法を学んだのは、わが臣、韓非であった。
だが、その法で我が国が滅ぶとは……皮肉なものだな」
廷の空気がわずかに揺れた。
嬴政の眉がほんの少しだけ動いたのを、呂明は見逃さなかった。
李斯が進み出て、淡々と口を開く。
「法は理であり、情を介さぬ。韓非殿は理を説かれたが、“理に支配されるな”とは仰らなかった。
王はその教えを完全に実現なされたのです」
嬴政の瞳が微かに光る。
「彼は私を導いた。彼が理を生きられぬゆえ、私が理を生きる」
韓王安の膝が崩れ落ちる音が、石の床に小さく響いた。
その瞬間、呂明の胸の中で天秤が軋むように鳴った。
理の皿が沈みきり、情の皿は乾いたまま上空に浮かぶ。
——秤が狂っていく。
嬴政の声が、再び静かに響いた。
「韓の民を咸陽の法に従わせよ。律は掲げ、罰は軽からず重からず、すべて等しくせよ」
それは宣告であり、征服であった。
血を流さぬ支配——理による征服。
数月後。
旧韓都・新鄭の街には、秦の律が貼り出された。
通りの角ごとに掲げられた木簡には、条文が整然と刻まれている。
「道を塞ぐ者、三十鞭」
「嘘を言う者、五十鞭」
「報告を怠る者、百鞭」
子を抱いた母が読み違えただけで、監督吏の鞭が飛ぶ。
人々は声を潜め、呼吸を細くする。
町は清く、静まり返っていた。
だが、その静けさは安寧ではなく、恐怖の沈黙だった。
呂明は廃れた市門の前に立ち、風に揺れる律文を見上げた。
「……水、清ければ魚棲まず、か」
その横で、旅の装束に身を包んだ青年が静かに頷く。
張良であった。
彼は城壁に指を這わせ、かすれた文字を撫でる。
そこには「韓非」と刻まれていた。
「理が人を救うと信じた男の、理によって滅びた国だ」
「理清ければ、人棲まず」
二人の視線の先、街の空は抜けるように高かった。
けれど、その青さの底には、どこか息の詰まる冷たさがあった。
嬴政の統治が理の頂点へと向かうにつれ、
秤はわずかに狂い始めていた。
その夜、咸陽の宮にて。
嬴政は李斯に命じ、韓律を秦法に組み入れるよう指示する。
筆の先が走り、法が増え、秩序が拡がる。
そのたびに、人の居場所が狭くなっていく。
「濁りは要らぬ。濁りがあるから乱れるのだ」
嬴政の言葉は確信に満ちていた。
李斯は頭を下げたまま、ほんの一瞬だけ口を開く。
「ですが、大王……水が清すぎれば、魚は棲みませぬ」
嬴政の視線がゆっくりと李斯に向く。
「魚が棲まずとも、澄んだ水こそ美しい」
その瞬間、呂明の胸の奥で、再び秤が鳴った。
音もなく、理の皿が沈み、情の皿が空に浮く。
針は戻らなかった。
こうして——韓は滅びた。
理に支配され、清廉なる沈黙の中へと。
嬴政が目指す理の国は、韓非子の理想を継いだはずのものだった。
だがその理は、もはや人を救うための秩序ではなく、
人を選別し、沈黙させるための枠組みと化していた。
天秤の片皿に、理が沈む。
その重みの向こうで、情は光を失っていく。
――それが、「水清ければ魚棲まず」の国の始まりだった。
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