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神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第九章 韓滅亡編
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第百三十七話 均される国

──水清ければ魚棲まず──


 咸陽の空は透きとおるように青かった。

 それは、まるで一片の濁りも許さぬ王の理そのもののように。


 韓が陥落したという報せが届いた。

 王宮に満ちる空気は静かで、祝宴の気配すらない。

 嬴政は玉座の上から淡々と告げた。


「理が通った。それだけのことだ」


 その声には勝利の昂揚も誇示もない。

 ただ、正しさの確認に過ぎぬ響き。

 李斯は頭を垂れ、呂明は胸の奥でかすかな違和を覚えた。

 理が通ることは善いことのはずだ。

 だが今の王の声音には、人の情を断ち切るような冷たさがあった。


 捕らえられた韓王安が咸陽へ護送されてくる。

 罪状は「秦法への不服従」。

 戦ではなく法によって裁かれる王——それは異様な光景だった。


 廷中には整然と並ぶ文吏たち、記録官が筆を走らせ、刑律官が条文を読み上げる。

 嬴政は静かに玉座から見下ろし、まるで法の具現そのもののように動かない。


「韓王安、汝は国を治めながら法を学ばず、民を惑わせ、国を乱した。その罪、天地に容れがたし」


 嬴政の声は澄んでいた。

 怒号でも威圧でもない。

 だが、その理路の正確さが、逆に逃げ場のない恐怖を生む。


 韓王安は震える唇で問う。


「……戦に敗れ、降伏した。それでもなお、罪に問われるのか」


「法は誰に対しても等しい」


 嬴政の返答は簡潔だった。

 「等しさ」とは、赦しのない平等のことだ。


 呂明の胸に蘇るのは、かつての韓非子の言葉であった。

 ——『法は人を縛るものではない。人が法を縛る時、国は立つ』。

 だが今、法は完全に人の上にあった。


 王安は力なく笑った。


「……法を学んだのは、わが臣、韓非であった。

 だが、その法で我が国が滅ぶとは……皮肉なものだな」


 廷の空気がわずかに揺れた。

 嬴政の眉がほんの少しだけ動いたのを、呂明は見逃さなかった。


 李斯が進み出て、淡々と口を開く。

「法は理であり、情を介さぬ。韓非殿は理を説かれたが、“理に支配されるな”とは仰らなかった。

 王はその教えを完全に実現なされたのです」


 嬴政の瞳が微かに光る。


「彼は私を導いた。彼が理を生きられぬゆえ、私が理を生きる」


 韓王安の膝が崩れ落ちる音が、石の床に小さく響いた。

 その瞬間、呂明の胸の中で天秤が軋むように鳴った。

 理の皿が沈みきり、情の皿は乾いたまま上空に浮かぶ。


——秤が狂っていく。


 嬴政の声が、再び静かに響いた。


「韓の民を咸陽の法に従わせよ。律は掲げ、罰は軽からず重からず、すべて等しくせよ」


 それは宣告であり、征服であった。

 血を流さぬ支配——理による征服。




 数月後。

 旧韓都・新鄭の街には、秦の律が貼り出された。

 通りの角ごとに掲げられた木簡には、条文が整然と刻まれている。


「道を塞ぐ者、三十鞭」


「嘘を言う者、五十鞭」


「報告を怠る者、百鞭」


 子を抱いた母が読み違えただけで、監督吏の鞭が飛ぶ。

 人々は声を潜め、呼吸を細くする。

 町は清く、静まり返っていた。


 だが、その静けさは安寧ではなく、恐怖の沈黙だった。

 呂明は廃れた市門の前に立ち、風に揺れる律文を見上げた。


「……水、清ければ魚棲まず、か」


 その横で、旅の装束に身を包んだ青年が静かに頷く。

 張良であった。

 彼は城壁に指を這わせ、かすれた文字を撫でる。

 そこには「韓非」と刻まれていた。


「理が人を救うと信じた男の、理によって滅びた国だ」


「理清ければ、人棲まず」


 二人の視線の先、街の空は抜けるように高かった。

 けれど、その青さの底には、どこか息の詰まる冷たさがあった。


 嬴政の統治が理の頂点へと向かうにつれ、

 秤はわずかに狂い始めていた。




 その夜、咸陽の宮にて。

 嬴政は李斯に命じ、韓律を秦法に組み入れるよう指示する。

 筆の先が走り、法が増え、秩序が拡がる。

 そのたびに、人の居場所が狭くなっていく。


「濁りは要らぬ。濁りがあるから乱れるのだ」


 嬴政の言葉は確信に満ちていた。


 李斯は頭を下げたまま、ほんの一瞬だけ口を開く。


「ですが、大王……水が清すぎれば、魚は棲みませぬ」


 嬴政の視線がゆっくりと李斯に向く。


「魚が棲まずとも、澄んだ水こそ美しい」


 その瞬間、呂明の胸の奥で、再び秤が鳴った。

 音もなく、理の皿が沈み、情の皿が空に浮く。

 針は戻らなかった。


 こうして——韓は滅びた。

 理に支配され、清廉なる沈黙の中へと。





 嬴政が目指す理の国は、韓非子の理想を継いだはずのものだった。

 だがその理は、もはや人を救うための秩序ではなく、

人を選別し、沈黙させるための枠組みと化していた。


 天秤の片皿に、理が沈む。

 その重みの向こうで、情は光を失っていく。


――それが、「水清ければ魚棲まず」の国の始まりだった。

数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。


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