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神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第九章 韓滅亡編
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第百三十六話 水清ければ魚棲まず

 朝の咸陽宮は、白い息が凍るほどの冷気に包まれていた。

 玉石の床に射し込む陽光は鋭く、誰の影も許さぬほど澄みきっている。

 整列する群臣たちは、一言の私語もなく、ただその冷たさに耐えていた。


 玉座の上、嬴政は静かに立ち上がる。

 白衣の袖が音もなく揺れ、声が広間に響いた。


「我が国は、濁りを許さぬ。

 賄賂も、不正も、情にすがる怠けも。

 それらは秩序を蝕む病だ」


 その声音は穏やかでありながら、刃のように鋭かった。

 空気が震え、臣下たちの胸の奥まで冷たく染み入る。


「法とは、天の理である。

 法の下においてこそ、人は等しく裁かれ、国は揺るがぬ」


 李斯が恭しく頭を垂れ、王綰が声を合わせた。


「大王の理、まことに正しゅうございます。清廉こそ徳、法こそ秩序にございます」


 だが、列の端で呂明は目を細めた。

 冷えきった空気の中、嬴政の声にはかすかな震えがある。

 抑え込まれた激情――理の鎧の下で、燃えるような熱を孕んでいる。


 その隣で張良は、凍った床を見つめながら小さく息をついた。


 「……人の温もりが、消えてゆく」

 誰にも届かぬほどの声で、そう呟いた。




 政務を終えたあと、呂明と張良は咸陽宮の庭園に出た。

 池の面には薄い氷が張り、冬の日差しを鈍く返している。

 風が吹けば、枯葉が氷上を転がって音を立てた。


「水清ければ魚棲まず、という言葉を知っていますか」


 張良が池を見つめながら言った。


「濁りを恐れて水を澄ませすぎれば、命は息絶える。

 嬴政様の治める咸陽は、まさにその清水のように思えます」


 呂明は頷き、懐から天秤を取り出した。

 片方に“理”、もう片方に“情”と刻まれた札を置く。

 針はゆっくりと傾き、震えながら止まらない。


「均衡が、取れぬ……。理が勝ちすぎている」


「人は法だけで生きられません」


 張良の声が柔らかく響く。


「情もまた、秩序の一部。法にすべてを委ねれば、心は萎えます」


 氷の上を渡る風が冷たく、呂明は無意識に息を白く吐いた。

 胸の奥に重いものが沈む。

 嬴政の理は正しい。だが、その正しさがあまりに純粋すぎる。




 その午後、政務の間に再び群臣が集められた。

 嬴政は机の前に座し、指先で筆を弄んでいる。

 張良が一歩進み出て、進言した。


「秦王。法を以て国を治めること、まことに尊きことにございます。

 しかしながら——民のすべてを律しすぎれば、心の居場所を失います」


 一瞬、空気が凍りついた。

 李斯が顔を上げ、王綰が眉をひそめる。


 嬴政は静かに立ち上がり、張良の前まで歩み寄る。

 足音が玉の床を打つたび、低い音が広間に響いた。


「張良。お前は私に、情を説くのか」

「法を緩め、罪を見逃せと言うのか」


 その声は、静かな怒りそのものだった。

 喉奥で炎がうなりを上げているのが見えるようだった。


「……だが、情に流された国がどうなったか。六国はその証だ」


 拳を握る音が、乾いた空気に響いた。

 節が白く浮かび上がる。


「私は濁りを許さぬ。

 この国は、誰もが法の前に等しく立つ。

 それが、私の理だ」


 その瞳には激情が宿っていた。

 だが、燃え上がる直前にそれを押し殺す。

 理が激情を封じ、王の姿を形づくっていた。


 嬴政が背を向け、広間を去る。

 その背中を見送りながら、呂明は天秤を掲げた。


 針は震え、音もなく片側に沈む。

 均衡が、わずかに崩れた。


 張良が呟く。


「法の正しさは、時に人の営みを壊す。

 大王はそれを恐れているのか……それとも望んでいるのか」


 李斯が静かに現れ、二人に告げる。


「王命が下る。

 次の征伐は——韓だ」


 その声を聞いた瞬間、呂明の天秤がわずかに鳴った。

 氷の池に亀裂が走るような、かすかな音だった。


 澄みすぎた水の底には、魚の影がない。

 清廉の果てに、静かな滅びの予感が漂っていた。


 ――咸陽の空は晴れわたり、風ひとつない。

 その静けさが、かえって恐ろしく感じられた。

数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。


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