第十四話 陰謀の始動――呂不韋失脚への前兆と国益の重み
市場は朝靄の中で、いつも以上に重い空気に包まれていた。露店の掛け声や商人たちの激しい議論が、ただの取引を超えて、国の運命すら左右しうる力の行方を暗示しているようだった。
昨夜、呂明は密かに耳にした噂――嫪毐事件を巡る陰謀の影――が、今朝の市場のざわめきに混じっているのを感じ取っていた。
嫪毐が王太后の寵愛を受け、日に日に権力を強めているという話はすでに広まっていた。
しかし、それだけではない。彼は独自に軍を抱え、まるで一国の主のように振る舞い始めているというのだ。さらに、嫪毐の勢力拡大を裏で支えているのが呂不韋であるという噂が、官僚たちの間でささやかれていた。
露店の奥にある一室。そこでは、数名の官僚と大商人たちが低い声で密談していた。部屋内は、古びた木造の梁から漂う茶の香りと、燭台の淡い明かりに照らされ、静かでありながらも緊迫した空気が支配していた。
「呂不韋の勢いは、単なる商才を超え、政界にまで深く介入しておる。その影響力が、この国の秩序を揺るがしかねぬと、我々は憂慮せざるを得ぬ」
ひとりの官僚が、冷静ながらも決然と口を開く。
さらに、別の官僚が、低く計算された声で続けた。
「嬴政も、そろそろ動き出している。王家の血統を持つ者として、この国の隅々まで把握せねばならぬ。しかし、呂不韋が独走すれば、我々既得権益は脅かされる。嫪毐の影が呂不韋の背後にある限り、秦の未来は乱れる」
その場の空気は、一瞬、凍りつくかのように静まり返った。商人たちの顔には、これまで慣れ親しんできた取引の風景が、急に不穏な影を落としたかのような、冷たい恐怖が浮かんでいた。
一方、その夜、書斎の静けさの中、呂明は父のもとに呼ばれた。燭台の火が古びた書物や玉飾りに柔らかく反射する中、呂不韋は深い眼差しで呂明を見つめ、静かに口を開いた。
「明、今日お前が見たものは、ただの取引ではなかった。市場は、民の心と、国の運命を映し出す鏡だ。しかし、そこに潜むのは、我々が望む正道とは程遠い、権力者たちの陰謀だ」
呂不韋は、一瞬言葉を止め、遠い目をして語り続けた。
「嬴政は、我が国を統べるため、全土を把握しようとしている。そのために、私が築いてきた力に挑戦するかのように動いている。私自身、秦の丞相として、金銭と時間を惜しまず、この国の秩序と国益を守るために努力してきた。政治とは、単に権力を振るうのではなく、民を安定させ、国の未来を左右する知恵と覚悟の結晶である」
呂明は、父の熱い語りに心を打たれながらも、内心の不安を隠せなかった。父が築き上げてきたものを失うのではないか。そして、今まで信じてきたものが、音を立てて崩れていくような、そんな恐怖も感じていた。
「父上……俺は、ただの商人の子として育ってきた。しかし、今、俺は、民の声と権力の影が交錯するこの市場で、何を成すべきなのか、その答えが分からなくなっている」
呂不韋は、厳かに呂明の瞳を見据え、柔らかいが重い口調で答えた。
「明、商いは単なる物の売買ではない。正しい商いは、民の信頼を得、国の未来を築く礎となる。しかし、現実は、権力の陰謀に満ち、時に正道をも狂わせる。嬴政のような者は、我々の秩序を打破し、新たな時代を切り拓こうとする。しかし、その道は、我々が信ずべき正義とは異なる。お前は、これから己の力で、その狭間に立ち、正しい商いを貫き、国の運命をも左右する存在となる覚悟を持たねばならぬ」
呂明は、父の言葉に心を痛め、そして深く考え込んだ。窓の外からは、夜風が静かに吹き込み、燭台の火がゆらゆらと揺れている。
その揺れる炎の先には、ただの商人としての未来だけではなく、父の志を継ぎ、国全体の命運に関わる重い責任が待っていることを、彼は痛感していた。
「俺は、ただ流されるだけの者ではない。父上が費やしてきた金と時間、そして国益を守るための覚悟を、この市場で学び、必ずや自分の道を切り拓いてみせる」
呂明の声は、静かにしかし確固たる決意を帯び、書斎の静寂に溶け込んでいった。
その夜、呂明は自らの胸に、民の声と権力の駆け引きのすべてを刻みつけ、これからの試練に対する覚悟をさらに深めた。そして、ただの商いの世界を超え、国の未来すらも左右する大いなる力となるための第一歩を、固く誓ったのだった。
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