第百三十五話 黒き秤の間にて
夜の咸陽宮は、凍るように静かだった。
廊下に吊るされた燈籠が、微かな風に揺れて鳴る。その音は、まるで王都そのものが息を潜めているようだった。
灯が廊下を等間隔に照らし、足音すら吸い込んでいく。李斯は言葉少なに歩みを進め、やがて一枚の扉の前で立ち止まった。
「これより先は言葉に秤を。王は理を愛されるが、理に背く者には容赦なき御方だ」
呂明は黙って頷くと、扉の向こうへと足を踏み入れた。
そこは広間というより、闇に浮かぶ一点の光だった。
灯火の下にただ一人、嬴政が座している。白衣に黒帯、机上には書簡と小さな秤。若い。だが、その静けさは異様なほど深い。
「久しいな呂明。あちこち行っていたと聞くが、聞かせたくれるのか?」
声は穏やかだが、その底にはわずかな熱がある。抑え込まれた激情の名残――
それを呂明は感じ取った。
「大王のお耳汚しにならなければ」
嬴政はまなざしを上げ、短く頷いた。
「李斯より聞いておる。韓と楚の情勢を進言したいと」
「は。国は戦によって壊れ、民は恐れによって従う。ですが、恐怖の上に築かれた秩序は、脆きものにございます」
嬴政は沈黙したまま、細い指で机を叩く。
その音が一定ではなく、微妙に揺れている。
理性の仮面の下で、激情が脈打っているのが見えた。
「恐怖を否定するか」
低く響く声に、わずかな揺らぎがあった。
理を語りながら、彼の内で何かが揺れている。呂明にはそれが、王という檻の中で暴れようとする炎の音に思えた。
「恐怖は必要にございます。ただし、それは始まりにして終わりではない。恐怖に晒された民は、やがて理を信じぬ」
嬴政の瞳が光を帯びた。
若さゆえの怒りか、それとも己を貫く信念か。
彼はゆっくりと立ち上がり、背を向けたまま言った。
「恐怖は理に従う。理が乱れぬ限り、恐怖もまた秩序を保つ。
理なき王は滅びる。私はその理をもって天下を量る」
その声が止んだあと、静寂が戻った。だが、その静寂こそが、恐怖よりも重く響いていた。
机上の秤に手を伸ばし、その片方に石を置いた。
秤は微かに傾き、灯火が揺らめく。
「理を欠けば、国は沈む。恐怖もまた、その一端にすぎぬ」
呂明は黙ってその石を見つめた。
それはただの比喩ではない。この王は自らの内にある“激情”を、理という名で押さえ込もうとしている。
「……大王の理が、天下を導かんことを」
呂明が深く頭を下げると、嬴政はわずかに微笑を浮かべた。
その笑みは優雅で、しかしどこか冷たかった。
会談を終えて廊下に戻ると、李斯が待っていた。
外の風が冷たく、燭の火が震えている。
「大王は……お若い。だが、その理の奥に火がある」
呂明の言葉に、李斯は目を伏せた。
「その火を、誰も消せぬ」
遠く、扉の向こうから秤の音が響いた。
それは理の音ではなく、鉄が軋むような低い響きだった。
その夜、呂明は悟った。
――この王が天を量る秤を掲げるとき、天下は均される。だが同時に、何かが静かに燃え始めている。
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