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神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第九章 韓滅亡編
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第百三十五話 黒き秤の間にて

 夜の咸陽宮は、凍るように静かだった。

 廊下に吊るされた燈籠が、微かな風に揺れて鳴る。その音は、まるで王都そのものが息を潜めているようだった。


 灯が廊下を等間隔に照らし、足音すら吸い込んでいく。李斯は言葉少なに歩みを進め、やがて一枚の扉の前で立ち止まった。


「これより先は言葉に秤を。王は理を愛されるが、理に背く者には容赦なき御方だ」


 呂明は黙って頷くと、扉の向こうへと足を踏み入れた。


 そこは広間というより、闇に浮かぶ一点の光だった。

 灯火の下にただ一人、嬴政が座している。白衣に黒帯、机上には書簡と小さな秤。若い。だが、その静けさは異様なほど深い。


「久しいな呂明。あちこち行っていたと聞くが、聞かせたくれるのか?」


 声は穏やかだが、その底にはわずかな熱がある。抑え込まれた激情の名残――

 それを呂明は感じ取った。 


「大王のお耳汚しにならなければ」


 嬴政はまなざしを上げ、短く頷いた。


「李斯より聞いておる。韓と楚の情勢を進言したいと」


「は。国は戦によって壊れ、民は恐れによって従う。ですが、恐怖の上に築かれた秩序は、脆きものにございます」


 嬴政は沈黙したまま、細い指で机を叩く。

 その音が一定ではなく、微妙に揺れている。

 理性の仮面の下で、激情が脈打っているのが見えた。


「恐怖を否定するか」


 低く響く声に、わずかな揺らぎがあった。

 理を語りながら、彼の内で何かが揺れている。呂明にはそれが、王という檻の中で暴れようとする炎の音に思えた。



「恐怖は必要にございます。ただし、それは始まりにして終わりではない。恐怖に晒された民は、やがて理を信じぬ」


 嬴政の瞳が光を帯びた。

 若さゆえの怒りか、それとも己を貫く信念か。

 彼はゆっくりと立ち上がり、背を向けたまま言った。


「恐怖は理に従う。理が乱れぬ限り、恐怖もまた秩序を保つ。

 理なき王は滅びる。私はその理をもって天下を量る」


 その声が止んだあと、静寂が戻った。だが、その静寂こそが、恐怖よりも重く響いていた。



 机上の秤に手を伸ばし、その片方に石を置いた。

 秤は微かに傾き、灯火が揺らめく。


「理を欠けば、国は沈む。恐怖もまた、その一端にすぎぬ」


 呂明は黙ってその石を見つめた。

 それはただの比喩ではない。この王は自らの内にある“激情”を、理という名で押さえ込もうとしている。


「……大王の理が、天下を導かんことを」


 呂明が深く頭を下げると、嬴政はわずかに微笑を浮かべた。

 その笑みは優雅で、しかしどこか冷たかった。


 会談を終えて廊下に戻ると、李斯が待っていた。

 外の風が冷たく、燭の火が震えている。


「大王は……お若い。だが、その理の奥に火がある」


 呂明の言葉に、李斯は目を伏せた。

「その火を、誰も消せぬ」


 遠く、扉の向こうから秤の音が響いた。

 それは理の音ではなく、鉄が軋むような低い響きだった。

 その夜、呂明は悟った。

 ――この王が天を量る秤を掲げるとき、天下は均される。だが同時に、何かが静かに燃え始めている。





数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。


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