第百三十四話 秤の片側
漢中を発って十余日、呂明と張良は蜀から取り寄せた商隊に紛れて北上していた。
秋の空は澄み渡り、馬の吐息は白く煙る。荷駄に積まれた布や塩は外見を取り繕うためのもので、真に重みをもつのは懐に忍ばせた数通の書簡だった。
「呂明殿」
張良が並んで歩きながら口を開く。
「このままでは韓は滅ぶ。誰の目にも明らかだ。だが、なぜ貴殿はその渦中へ身を投じるのだ?」
問いは柔らかだが、探りを含んでいる。
呂明は口の端を上げて答えた。
「商人は時流を読むもの。韓が滅びるのなら、次に流れる血の色を見極めねばならぬ」
「血の色……か」
張良の瞳がわずかに光る。言葉の奥に、ただの商人ではない気配を読み取ったのだ。
その夜、宿営地の灯に照らされながら、呂明は一通の文を広げた。
筆を執ると、李斯の名を冒頭に記す。
〈嬴政大王に直に言上したきことあり。公の場では叶うまい。密かに段取りを頼みたし〉
短い文を巻物に収め、信頼できる使者に託した。
三日後、返書が届く。
〈王に近づくは容易ならざること。されど御意を伝える場は用意しよう。声は必ず王の耳に届く〉
李斯の筆跡は冷徹で無駄がない。だがそこには確かな重みがあった。呂明は小さく頷き、胸の奥に熱を覚える。
やがて一行は咸陽近郊の関門に差しかかった。高く聳える城壁の影が、冬の陽を遮って寒々しい。
兵士が槍を交差させて呼び止める。
「何者だ」
張良が一歩進み出て、外交官としての資格符を示した。だが警戒の目は厳しい。
そこで呂明が前に出て、涼しい声で言った。
「蜀布を届けに参った。咸陽の市場で待つ者がいる。遅れれば損をするのはそちらだぞ」
兵士の眉が動く。荷駄の一部を改めると、本当に布が積まれている。しばし逡巡の後、通行を許した。
通り抜けざま、張良が囁く。
「商人の舌とは恐ろしい。兵をも動かすか」
呂明は笑みを浮かべるだけで、答えなかった。
日が傾くころ、咸陽の城郭が姿を現した。
黒々とした城壁は果てしなく延び、空を切り裂くかのように天を衝く。
城門の上には幾重もの旗が翻り、秦の黒き威が陽光を呑み込んでいる。
呂明はその光景を見つめ、胸中で呟いた。
(これが嬴政の秤か。恐怖を力とし、天下を量ろうとしている)
張良もまた、無言でその威容を見上げていた。
彼の瞳には畏怖と同時に、燃えるような反抗心が宿っている。
二人の思惑は交わらぬまま、馬蹄の音が城下へと吸い込まれていった。
やがて呂明の懐で、李斯の文が冷たく揺れる。
嬴政との非公開の会見は、すでに定められた秤の一方に置かれていた。




