第百三十三話 密やかな道行き
漢中の秋は、山霧が濃い。谷を渡る風が湿り気を帯び、行き交う人々の声さえ霞の奥に溶けていく。
呂明は館の庭に佇み、朝靄の中を静かに見渡していた。そこへ従者が駆け寄り、低く告げる。
「呂主、客人が参っております」
姿を現したのは張良だった。楚の血を引く名門の士にして、才知で諸国に名を馳せる人物。既に呂明とも数度顔を合わせており、今回は正式に「外交官」として漢中を訪れた形であった。
「張子房殿、よくぞお越しくだされた」
「貴地の治めぶりは見事と聞きます。あの険しき巴蜀の余波を鎮め、交易の要地とされているとは」
言葉は柔らかいが、その眼は細く鋭い。呂明は心の内で、彼が単なる使者でないことを改めて悟った。
応接に移り、献上された茶を前に両者は言葉を交わす。張良は周到に周辺諸国の動向を語り、楚・斉・燕それぞれの思惑を比較するように問いを投げかけた。だが、核心には踏み込まない。
やがて彼は声を潜める。
「漢中の安定は、秦にとって計り知れぬ価値を持ちます。ゆえに私は、ある人物の意思を確かめるために参りました」
呂明は眉をわずかに動かした。その「ある人物」とは誰か――答えは一つしかない。嬴政。
張良はその名を出さず、ただ「都に赴く機会」を示唆した。
「公開の使節としてではなく、密やかな立場で。あなたが秦王の眼を見れば、真の意を知るでしょう」
呂明は沈黙した。庭の木々がざわめき、遠くで雷厳と岳春が部下に指示を飛ばす声が響いた。侠客であった彼らも今は治安の柱。漢中が半ば独立した都市として機能しているのも、彼らの存在あってのことだ。
――だが秦王の意志を測らずして、未来を秤にかけることはできぬ。
「承知した。だが、この旅は公にすべきではない」
「無論。誰に知られることなく、あなたと私で道行きを整えましょう」
張良は微笑んだが、その眼差しには鋭い光が宿っていた。呂明もまた応じる。二人は互いの腹の底を探り合いながらも、共に都へ向かう密やかな旅路を決意した。
その夜、帳の中で呂明は天秤を心に思い描いた。片方には漢中の安寧、もう片方には嬴政の未来。秤は揺れて定まらず、彼の胸を重く圧した。
翌朝、山霧の晴れるのを待って、二騎の馬が館を出立した。誰にも告げられぬまま、都・咸陽への密かな道行きが始まった。




