第百三十一話 炎、導き手を得る
楚の港町、甘家の広間。
高く吊された油灯の炎が、薄暗い空間に揺れていた。張り詰めた空気に、墨の匂いと冷えた石床の湿り気が混じる。列をなす宗族の長老たちが座を占め、中央には帳簿の山。
その前に、郡守と呂明、蔡邑、そして甘尚が並び立っていた。
郡守が低く口を開く。
「この港の税収、近年は右肩上がりのはずだ。だが、王府に納められた金は年ごとに目減りしておる。理由を聞かねばならぬ」
視線が一斉に甘延へ注がれる。白髪を結った当主は、扇で口元を隠しながら答えた。
「港の整備に費やした。堤の修繕、倉の増築……記録に残っておる」
だが、その声には覇気がなかった。
郡守は頷くと、帳簿の一冊を持ち上げた。
「ならば、この支出は何だ。三年前に『倉庫の修繕』とある。だが、その同じ倉庫、昨年にも同額の修繕費が記されている」
広間にどよめきが走った。
さらに郡守は冷徹に続ける。
「船底の修理費も同じだ。同一の船が、短い間に三度も修理されたとある。常識では考えられぬ。――これは、私の部下が調べた報告だ」
甘延の額に汗が滲む。
「そ、それは……職人どもの怠慢が……」
言葉が途切れた瞬間、広間の外からざわめきが押し寄せた。
「横流しを見たぞ!」
「俺の荷が、夜中に甘家の倉から運び出されてた!」
窓の隙間から、群衆の叫びが風とともに入り込む。
郡守は顎を引いた。
「外の声も証拠の一つだ。当主、答えるがよい」
沈黙。甘延の唇が震える。だが言葉は出なかった。
広間は重苦しい沈黙に包まれ、やがて一人が立ち上がった。甘尚である。
「父上……」
彼は一歩前に進み、深く息を吸い込んだ。
「民の汗を吸い尽くし、家の名を地に落とすこと、もはや看過できぬ。――この私、甘尚が甘家を正す」
広間がざわめき、長老たちが顔を見合わせる。若さを嘲る者もいたが、窓の外から響く群衆の声がそれをかき消した。
「甘尚様だ!」
「若様こそ当主に!」
蔡邑が呟く。
「……外も内も、流れは一つになりつつありますな」
甘延は座に崩れ落ち、扇を握る手をだらりと垂らした。誰もその姿に同情を寄せる者はいなかった。
郡守が静かに告げる。
「楚王の勅命に代わり、この場で決する。甘尚を新たな当主と認め、家の財を改めよ」
甘尚は深く頭を垂れ、広間に響く声で誓った。
「港は楚の財であると同時に、ここに生きる民の命脈だ。私は彼らと共に汗を流し、この地を立て直す。甘家は、民のために在る家とする!」
外から歓声が湧き上がった。「甘尚!甘尚!」と唱える声が波のように広間を揺らす。長老たちは観念したように沈黙し、誰も反対を唱えなかった。
その光景を、呂明は静かに見つめていた。
拳を突き上げる民、瞳を輝かせる職人たち。――だがその熱が、いずれ冷め、また別の濁流に変わることを彼は知っていた。
「……天秤は傾いたな」
呟いた声は、灯火の揺れに吸い込まれて消えた。
こうして甘家の代は改まり、港町を揺るがした裁きは炎のごとく燃え上がり、やがて新たな秩序へと姿を変えていった。
第八章はこれにて終了です。
次回第九章は秦編に戻ります。




