第百二十九話 声なき声
港町は祭りの余韻を残しつつ、日常へと戻りつつあった。だが、潮風に混じって漂う空気には、以前とは違うざらつきがあった。
「最近の港の取り分はどうだ」
木箱を担いだ労働者が仲間に囁く。
「減った。甘家の取り立ては変わらんのに、仕事は遅れ、報酬は目減りするばかりだ」
「よそ者に灯りを売らせるからだ」
「いや、違う。俺たちの汗を、甘家が絞りすぎてる」
声は酒場にも、波止場にも広がっていた。行商人たちも「昔は良かった」と肩を落とし、子どもたちの食う粥の薄さを嘆く母親もいた。
その声はやがて甘家の座敷へと届く。
帳簿を前に座る甘延は、顔を険しくした。
「くだらぬ戯言だ。民の口など風と同じ。いちいち気にしておれぬ」
長老たちが声を揃える。
「港は甘家が代々守ってきた。秩序を乱す声は叩き潰すべきです」
しかし、若い甘尚は立ち上がった。
「叔父上、民の声は風ではありません。火種です。聞き入れねば、やがて燃え広がる」
その瞳には熱が宿っていた。
甘延は冷笑する。
「若造が口を挟むな。火を恐れてどうする。火など、上から踏み潰せば消える」
一同の沈黙を背に、尚は拳を握りしめ、言葉を飲み込むしかなかった。
その夜、呂明は蔡邑と並んで港を歩いていた。露店の灯りは少しずつ消え、闇が支配を取り戻しつつあった。
「今日、甘家で何があったかご存じですか」蔡邑が問う。
呂明は足を止め、切れ端の紙を拾った。そこには労働者がこぼした訴えが墨で殴り書きされていた。
「賃金を返せ。汗を返せ」
呂明は静かに笑った。
「光を灯せば影ができる。影が集まれば声となる。無視すれば、やがて形を持ち、牙を剥く」
蔡邑は眉を寄せる。「つまり……」
「押さえつければ、かえって燃えるということだ」
その時、波止場の隅で、古びた外套を着た老労働者が小さく呟いた。
「俺たちは……声を持たぬのか」
その声は波にかき消され、誰も答えなかった。だが呂明だけは立ち止まり、目を閉じてその言葉を胸に刻んだ。
「……いや、声はある。まだ届いていないだけだ」
呂明の呟きは夜風に溶けた。港を覆う闇の奥で、確かに火種が赤く燻りはじめていた。




