第百二十八話 静かなる謀
夜の港は、昼の喧噪が嘘のように静まり返っていた。波が杭を叩く音と、繋がれた船の軋む声だけが闇を揺らしている。
呂明は港の端に立ち、手にした提灯の切れ端をじっと見つめていた。あの夜、切り裂かれた紙の破片。水に流したはずの残りを、彼はわざわざ拾い戻してきたのだ。
「……影は形を持ち始めている」
呟いたとき、背後から足音が近づいてきた。
「提灯ひとつに、よくそこまで考えるものだ」
声の主は若者だった。灯火に浮かび上がったのは、甘家の若き一員――甘尚。父や叔父に比べて線は細いが、瞳の奥には鋭い光が宿っている。
「これは驚いた。甘家のご子息が、こんな夜更けに」
呂明が探るように目を細めると、甘尚は小さく笑った。
「貴殿の商売には、興味がある」
「商売、か」
「ただの灯ではない。人を集め、心を結ぶ道具だ。祭りに浮かぶ提灯は、美であり、力だ」
呂明はその言葉に僅かに眉を動かす。目の前の青年がただの夢想家でないことを、すぐに察した。
「力、とは物騒な」
「現実を見よ。楚の港は古い仕組みに縛られている。甘家の名も、税の仕組みも、人心も。変わらねば、この流れは淀む」
「ほう。変えると言うのか」
「私は夢を語る気はない。ただ、計算をしているだけだ」
甘尚の声は冷静だった。熱はあるが、それを燃え上がらせるのではなく、鋭く削ぎ落として刃と化している。
「人を集める術は、金にも兵にも勝る時がある。貴殿はそれを証明した」
「俺はただ、商いをしているだけだ」
「商いを甘く見るな。利を操る者は、人をも操る。……利と志が交わるところに、新しい秩序が生まれる」
呂明は黙した。しばしの間、波音だけが二人の間を埋める。
やがて、彼は提灯の切れ端を夜風に掲げ、口を開いた。
「俺は人の志に肩入れはせぬ。ただ、利の流れを読むだけだ」
「ならば利で語ろう。――港を抑えるのは、誰のためか?」
甘尚の声が鋭く突き刺さる。
呂明は笑みを浮かべ、応じた。
「答えは一つじゃない。だから面白い」
二人の視線が交錯する。互いに完全には信用せず、だが利用できると直感していた。
「……ならば、しばらく様子を見よう」
甘尚がそう言って踵を返す。その背は若さに似つかわしくなく、重い決意を背負っているように見えた。
その姿を見送りながら、呂明はふと気配を感じた。闇の奥、揺れる影。
誰かがこちらを窺っている。
――保守派の目か。あるいは、港の荒くれどもか。
呂明は手にした提灯の破片を握りしめ、低く呟いた。
「火種は……もう撒かれたな」
港に冷たい風が吹き抜けた。夜の帳の中で、静かな謀が芽を出し始めていた。
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