第十三話 己の理想と現実――信念の狭間に苦悩する
市場の喧騒が一段と薄らぐ頃、夜の帳が街を包み始めた。燭台の柔らかな明かりに照らされた呂明は、ひとり静かに書斎の窓辺に立ち、先日までの出来事を胸に刻んでいた。
先日の官僚の冷徹な要求、商人たちが見せた戸惑い、そして父・呂不韋の厳しくも温かい言葉――
すべてが、今の自分の心に重くのしかかっていた。
呂明は、深い溜息をつきながら、ふと手元の古びた帳簿に目を落とす。その帳簿には、昨日の市場で交わされた数々の取引や、商人たちの議論、そして一部の客のざわめきが、数字と筆記で刻まれている。
だが、数字だけでは語り尽くせぬ、現実の厳しさがあった。
「俺は、ただの商人の子として育ってきた。しかし、父上も嬴政も、そしてあの官僚の言葉が示したように、商いは国の未来を左右する大いなるものだ。だが……」
呂明は、胸の奥で激しく自問自答した。
「この現実は、俺が理想として信じていたものとはあまりにも違う。民の声、取引の裏に潜む権力の駆け引き……。俺の信念は、ただ単に『正しい商売』を学ぶだけで補えるものではないのだろうか」
窓の外では、月明かりが淡く街を照らし、時折、遠くから風が通り抜ける音が聞こえる。その音は、まるで未来へ向かうための呼びかけのようにも思えた。
しかし、同時にその風は、冷たく容赦ない現実の厳しさも運んでいるかのようだった。
呂明は、前世の合理的な経済論と、この世界で実感した民の熱気、そして官僚たちの陰謀の数々とのギャップに、心の中で大きな波紋が広がるのを感じた。
彼は、己の胸にある理想――市場で民の心を動かし、国の未来をより良い方向へ導くという夢――と、現実の政治や権力の闇との狭間に苦しんでいた。
「俺は、果たしてこの厳しい現実に抗い、真に正しい商いの道を歩むことができるのか……」
呂明は自問しながら、机の上に広げられた一枚の地図に視線を落とす。地図には、各地の交易路や市場の位置、そして、影で動く権力者たちの影が暗示されるような記号が刻まれていた。
「もし、俺がこの国の未来を本当に変えたいのなら、ただ単に市場の流れを読むだけでなく、自らその流れを変えていく力が必要だ。だが、その道は決して平坦ではなく、信念と現実の狭間で、何度も自らの弱さに打ちひしがれるだろう」
呂明は、強い決意とともに、かすかな不安を感じた。これまで、父や嬴政の教えに従い、ただ学ぶだけの日々を送ってきたが、今こそ自ら行動に移し、変革の種を撒くべき時であると理解していた。
「俺は、ただの受け身の子ではない。自分の信じる正道を突き進むため、そして時には、この国の闇に挑む覚悟を持つために……」
呂明は、胸の奥で決意を新たにした。その目には、未来への希望とともに、己の未熟さに対する厳しい自戒の光が宿っていた。
だが、彼は知っていた。これからの道は、理想と現実との間で何度も揺れ動く苦悩の連続であり、己の信念を守り通すためには、数多くの試練を乗り越えねばならぬことを。
その時、書斎の扉が静かに開き、呂不韋が重々しい口調で呂明に声をかけた。「明よ、今宵はゆっくりと己の思いを整理し、明日からの道をさらに固めるのだ。商いとは、己の信念と、現実との激しい衝突の中で磨かれるものだからな」
呂明は、父の言葉にただ頷くだけでなく、心の中で新たな誓いを立てた。
「必ず、この厳しい現実を打ち破り、真の商いを成し遂げてみせる」
月明かりに照らされたその夜、呂明の心は、激しい葛藤とともに、未来への大いなる希望をも孕んでいた。
彼は、ただ自らの信念と現実のギャップに苦しむだけでなく、やがてその苦悩を糧に、新たな風を巻き起こす決意を固めていくのであった。
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