第百二十二話 灯と影
黄県の裏路地に、ぽつぽつと灯がともった。
小さな紙の灯籠──提灯だ。臨淄で人気を博したそれを、呂明は楚の湿った夜気の中に持ち込んだ。
「……やっぱり、こっちの夜は真っ暗だな」
陳平が提灯を掲げ、湿った石畳を照らす。足元に映る影すら柔らかい。
路地の隅で、蔡邑が湯気を立てる鍋を覗き込み、香草と魚を煮込む汁物を売っていた。
昼間の港は役人や茶商の目が光るが、裏路地の夜は彼らの手が届きにくい。
それを厳勝も分かっていて、表向きは関知しない体で呂明たちを泳がせている。
初日は物珍しさから人通りはまばらだったが、子供が提灯を手に走り回るうちに、次第に人が集まり始めた。
灯りの輪の中で、小さな露店が並び、焼き菓子や果物、安価な日用品が売れていく。
「おお……あの“飴細工”、面白いぞ」
「こっちの“香草湯”も身体が温まる」
楚の人々は好奇心を隠しきれず、次第に財布の紐を緩めていった。
三日目の夜。
夜市の噂は港の商館にまで届いていた。普段裏路地など足を踏み入れぬ若い書生や、暇を持て余した商家の息子娘までもが訪れるようになる。
だが、それは同時に──余計な目を引くことを意味していた。
「……お前らが“灯”を売ってるのか」
提灯の灯りに照らされた路地の入口に、恰幅の良い男が立っていた。
港湾の倉庫を仕切る茶頭だ。背後には屈強な手下が二人、腕を組んでいる。
「この港の商いは、すべて甘氏の許可がいる。灯籠も商いだ。勝手にやるな」
呂明は一歩前に出て、柔らかな笑みを浮かべた。
「これは夜市の催し物でして、商売というより……文化の灯火です」
茶頭は鼻で笑う。
「言葉遊びか。まあいい、だが派手にやるな。覚えておけ」
吐き捨てるように言い残し、闇に消えていった。
その夜、厳勝がひそかに呂明のもとを訪れた。
「……甘氏は港を握って久しい。あれは警告だ。次は潰しに来る」
呂明は湯気立つ茶をすすり、淡々と答えた。
「分かっています。ですが、長く続けるつもりはありません」
「では何を狙っている」
「人々に“灯り”を知ってもらう。それだけで十分です。
港を通らずとも、街中で灯を求める流れができれば……商いは自然と広がります」
厳勝は一瞬、呂明を見つめ、そして深いため息をついた。
「……本当に、よそ者は厄介だ」
それから数日、夜市はますます賑わいを見せた。
提灯の光は楚の夜を彩り、人々は暗闇の不便を忘れ、灯のある時間を楽しむようになっていた。
陳平は屋台の売り上げ帳を見ながら言う。
「この勢いなら、やがて港の商人も提灯を求めるさ」
だがその裏で──。
港の一角、茶頭は薄暗い座敷で酒をあおりながら、黒衣の男と向かい合っていた。
「よそ者を潰すなら、派手にやれ。甘氏はそう言っている」
黒衣の男は口元だけで笑い、静かに頷いた。
夜市に灯る光の外側で、闇が音もなく動き始めていた。
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