第百二十一話 楚南の光と影
斉・臨淄を離れた呂明たちは、夏の陽差しを背に受けながら南へと旅を続けていた。
数々の商いと出会いを経て、呂明は一つの確信を得ていた。商いとは利を得る手段であると同時に、人と人とを繋ぎ、社会を変える力を持つものだと。
次なる地は、楚。
広大な国土と豊かな物資を有するこの大国は、戦国の世にありながらも、どこか浮世離れした穏やかさを湛えていた。
「……風が違うな」
呂明は、馬車の幌をめくりながらつぶやいた。
斉よりも温暖で湿気の多い楚の空気は、土の匂いと海の香りが入り混じっている。港町に近づいている証だった。
一行がたどり着いたのは、楚南部にある新興の港町──黄県。
呂明がこの地を訪れるのは初めてだったが、かつて楚南交易会の設立を共に推進した役人── 厳勝が管轄する地でもあり、顔の利く土地ではあった。
厳勝は以前と変わらず冷静沈着な人物で、呂明の来訪に一応の歓迎を示したものの、どこか浮かない表情だった。
「厳勝殿、何か不都合が?」
「不都合……というより、“不動”ですな」
「……不動?」
「この地は、豊か過ぎるのです。土地も、人も、考えも」
厳勝の口調には、かすかな苛立ちがにじんでいた。
「民は飢えていない。商人も贅を尽くす。だが、変化は嫌われ、よそ者は信用されず、腐敗はあっても誰も声を上げぬ。そういう場所です」
呂明は、しばし黙考したのち、目を細めた。
「──なるほど、だから“灯”が必要だ」
「灯……ですか?」
「商いで火を灯せば、人の心も動くかもしれません。灯をともす夜市を試してみましょう」
「お好きに。ただ……派手なことをすれば、すぐに目を付けられますよ。楚の“特権階級”たちには」
そう厳勝が警告した直後だった。
──カンカン、と鐘の音が港の方から鳴り響いた。
「おや、騒がしいな……?」
呂明たちが向かうと、港の倉庫街で小さな騒ぎが起こっていた。どうやら、港湾の倉庫使用料をめぐって商人と役人が揉めているようだった。
「また例の“茶頭”か……」と厳勝が小さく漏らす。
茶頭──それは港湾の権限を握る、楚の老舗茶商「甘氏」が派遣している利権管理人の通称だった。
港を通る物資の多くに茶の印が押され、通行も倉庫もその印がなければ制限される。甘氏は、豊かな楚において、見えざる手で流通を握っていた。
「なるほど、これが“動かぬ”理由の一つか……」
呂明は、静かに口角を上げた。
夜──。
呂明は蔡邑の協力のもと、小規模な夜市の準備に取り掛かっていた。だが、商材はまだ選定中だった。
その時、ふと陳平が口を開いた。
「呂明、楚では“灯”そのものが足りていないと思わないか?」
「灯?」
「油は貴族が握り、夜は闇に包まれる。だが、夜こそ商いの狙い目だろう」
「……確かに」
呂明は提灯の試作品を取り出した。臨淄で好評を得た、新しい灯のかたち。
「蔡邑殿、この地で提灯を売るなら、どこが最適でしょう?」
「……倉庫街の裏路地。あそこなら、“茶頭”の目も届かない」
呂明は静かに頷いた。
──商いは、光をともす。
次なる一手は、楚南に“灯”を掲げること。
それが、動かぬ楚の水面に、最初の波紋を起こすことになるとは、まだ誰も知らなかった。




