第百十九話 風聞の価値
臨淄の朝は濃い霧に包まれていた。市に向かう荷車の軋む音が、まだ目覚めきらぬ街並みに響いている。
「連衡商会が、我らを訴える準備をしているようです」
陳平の声は冷静だったが、その眼差しは鋭く研ぎ澄まされていた。胡布が驚き、机を叩いた。
「ふざけた真似を……! 今度は官を使って潰すつもりか!」
呂明は軽く首を振った。既に天秤は動いていた。札を掌に収め、そっと目を閉じる。
(我らがこの地に留まる価値――)
青札がわずかに揺れ、赤札と拮抗した。だが、その傾きは確実に変わり始めていた。
「彼らが仕掛けてくるなら、それを逆手に取るだけの話です」
陳平が小さく笑った。
「告発の筋書きは『斉国の商道を乱す流民集団』――すなわち、我らが“余所者”であるという点に尽きます。ですがそれは、見方を変えればこう言い換えられる」
彼は筆を走らせ、木簡に文字を刻んだ。
「“代より来たりし新風、斉を正す”――です」
呂明が目を細めた。
「風聞を逆用するか」
陳平は頷いた。
「まず、連衡商会が我らを訴えようとしている情報を“意図的に”漏らします。そのうえで――我らが先に、告発文を書き、街に貼り出すのです」
胡布が眉をひそめた。
「自らの罪を? わざと噂に乗るのか」
「いいえ。『連衡商会が我らを陥れようとしている』ことを逆に可視化し、その構図を市民に伝えるのです。しかも、呂商会の姿勢として『斉の商道を守る』と先に訴えることで、正義の側に立つ形を作る」
それは、火中の栗を自ら拾いにいくような行為だった。だが、呂明はうなずいた。
「やろう。だが一つ、言葉は慎重に選べ。怒りでなく、誇りを」
陳平は口元を引き結び、木簡にさらなる文を綴った。
⸻
三日後。臨淄の大市の掲示板に、呂商会の声明が貼り出された。
『我ら、代より来たりし者なれど――斉の商道に敬意を持ち、共に歩む所存なり。連衡商会より不当なる誹謗を受けし件、いずれ公にて明らかとせん』
文は決して攻撃的ではなかった。だが、そこに滲む気骨は確かなもので、市場の者たちはその声明を前に足を止めた。
「……変わってきたな」
胡布が呟く。あれほど忌避されていた呂商会の屋台に、少しずつ客が戻りつつあった。
その夕刻、呂明は一人、天秤を手にしていた。軽く息を吐き、再び青札と赤札を載せる。
どちらの価値が重いか――ではない。どちらの「信」がこの街で育まれているかを、測るのだ。
青札が、わずかに揺れ動き、赤札を下回った。
(……風向きは変わった)
だがその瞬間、背後にひとつの影が近づいた。
「やるではないか、呂の君」
鋭い声。呂明が振り向くと、見覚えのある男が立っていた。連衡商会の筆頭、東門周である。
「なれば次は、“裏の顔”で勝負しようではないか」
その眼には、これまでとは違う剣気が宿っていた。




