第百十八話 墨の香
仄暗い帳の下、呂明は筆を止めた。
風は止み、紙燭がわずかに揺れる。硯に残る墨の匂いが鼻をつき、脳裏を刺激する。
――文で人の心を動かすなど、陳平の真骨頂だな。
斉王の後宮に紛れ込んだ奸賊を、呂明たちはどうにかして暴こうとしていた。だが証拠も手がかりもない。下手に動けば、こちらが「謀略者」として裁かれかねない状況だった。
そこで陳平が提案したのは、告発文を逆手に取る「偽書」の作成だった。
「誰かが『呂明が謀反を企てている』という偽情報を流してくるなら、我らからも『王を誑かす奸臣あり』との偽情報を流せばよい。釣られて動けば、奴は罠にかかる」
虚実の狭間に罠を張る――その手法は、まるで策士の書画に似ていた。
呂明は再び筆を取り、陳平に向かって言う。
「こういうことには、お前が筆を執ったほうが良かろう」
墨を磨る陳平の手つきは、驚くほど繊細だった。まるで筆先の呼吸を読み取るかのように、ゆっくりと調子を整える。
「筆は嘘をつきません。ですが、読む人間は、勝手に嘘を読む。だからこそ――面白いんです」
そう言って、彼はさらさらと数行を書きつけた。
『御前におわす白服の男、王を欺く奸臣なり』
『常に侍女と共にあり、南の庫より密書を受け取る』
名は伏せ、あえて曖昧な記述にとどめる。狙いは「犯人を暴くこと」ではなく、「犯人を動かすこと」にあった。
「密書を受け取るなど、我々の誰も知らぬはず……だが、やましい者は、真っ先に騒ぐ」
陳平の口元に笑みが浮かぶ。かすかな挑発と確信がその眼に宿っていた。
その夜、偽書は密かに宦官の手に渡り、やがて王の耳にも入ったという。
翌日。後宮で不審な動きを見せた女官が取り押さえられ、彼女の懐から南の庫と通じる「絹巻き状の細書」が見つかった。中身はただの献上品目だったが、密書の噂を恐れての隠滅と判断された。
やがて、その女官が仕えていた人物――斉王の側近・季良が自害したという報が届く。
陳平はそれを聞いても、何も語らなかった。ただ静かに筆を洗い、墨を流す。
呂明は隣に立ち、低く問う。
「お前は……人の心を斬るのか?」
「斬るわけではありません。斬ってもなお、再び芽吹く者を見極めているだけです」
呂明はその言葉を胸に刻みつつ、少しだけ息を吐いた。
「まるで……冬の庭師だな」
陳平は眉をひそめたが、やがて微笑し、墨を含んだ筆先を掲げる。
「ならば、貴方は――春を告げる使いですか?」
その言葉の意味は、このとき呂明にはまだ、わからなかった。




