第百十五話 語られざる戦場
斉・臨淄――学宮。
白砂の庭に晩春の風が流れ、軒下の香炉がほのかな檀の匂いを吐いた。
ここは斉国随一の学府。書生から老儒まで幾百の舌が、仁義礼智を武器に終わりなき論戦を繰り広げる。
「“徳治”こそ世を正す!」
「いや、“仁”なき“礼”は骨! まずは仁!」
「仁は情。秩序は礼だ!」
言葉が飛び、袖が揺れ、顔が紅潮する。
剣は抜かれぬ。血も流れぬ。だがここは――戦場だった。
輪の外で、呂明は静かに腕を組み、趙嘉が隣に控える。
「……剣より鋭い」
趙嘉が呟く。
呂明は小さく笑み、肩の袋から掌ほどの古びた天秤を取り出した。黒檀の柄に真鍮の両皿。皿は空のまま揺れている。
「これは商いの天秤?」
「人の“重さ”を量る天秤だ」
呂明は囁くと、片方の皿に小石をそっと置いた。
「今、左の皿には“志”という名の石が乗った。右の皿は“いのち”。――傾きが見えるか」
針はわずかに左――志へ沈む。
「志が重すぎると、命は浮く。浮いた命は、――軽い」
趙嘉は針の揺れに、薄い戦慄を覚えた。
ほどなく老儒が呂明を招く。
円座の中央、数十の目が商人を射る。
「旅の士よ。秦をどう見る?」
「鉄と法で道を拓く国です」
「ならば問う。そなたの商いは覇道につくか、我ら文道につくか」
視線が刀のごとく集まる。
呂明は天秤を掌に乗せたまま答えた。
「私の“道”は、信を繋ぐ道。武に屈せず、文に甘えず――ただ、人の営みに風を通したい」
堂が静まり、香の煙だけが揺れる。
天秤の針は中央で止まった。
夜、市門へ続く小路。
「呂主。学宮であのように言い切って、良かったのですか」
「思想は重い。均すには秤が要る」
呂明は天秤の皿を指で弾き、微かな音を立てた。
「斉は志を載せすぎた。皿が傾き、命が浮き始めている」
「……志が軽いより、重い方が良いのでは」
「重すぎれば転ぶ。転べば砕け、志も共に割れる」
趙嘉は沈黙した。背後の学宮では、灯を掲げた若き説客たちが行列を作り、白衣に朱で「義死」と染め抜いている。
翌未明――裏町の酒肆。
若き説客たちが灯油を打ち、剣舞の予行をしていた。
「志を示すには血を焚く。徳の浄火だ!」
彼らを見届けた呂明は、そっと天秤の右皿にもう一つ小石を置く。針はようやく水平へ戻った。
「この石は何です?」
「――“生き延びる術”だ。志を運ぶには、命が要る」
夜明け。波頭のように揺れる学宮の屋根をあとに、呂明と趙嘉は宿へ戻る。
空は刻一刻と朱に染まり、その向こうに薄い雲が流れる。
「斉は滅びますか」
「志だけが国を支えている――そんな国は、風に脆い。だが――」
呂明は天秤を懐に収め、顔を上げた。
「志を“生かす道”を見つけられれば、まだ間に合う。言葉で死ぬのではなく、言葉で明日を拓けるはずだ」
趙嘉の拳が強く握られた。
ふたりの背に、学宮の鐘が重く鳴り響く。それは剣のぶつかる音に似て――しかし、血を伴わぬ戦の開始を告げていた。
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