第百十三話 燕丹の帰還
春寒の風が、凍てつくような冷気を街路に吹き込んでいた。
燕・蓟の城下に、童庵の旗を掲げた商隊が到着する。荷車の軋む音に混じって、民の声が聞こえた。
「秦が来る……燕も、もう長くはもたぬぞ」
呂明は蓆を被ったまま、低くため息を吐いた。
その後ろに、旅装に身を包んだ趙嘉が控えている。
「ここが、燕……。思ったよりも……静かですね」
「静かというより、凍りついている。目に見えぬ恐れに」
呂明の目が、城の方角を仰いだ。
「おお……呂明!」
蓟の南側、旧知の商家にて、魯適が腕を広げて迎えた。
「生きていたか。趙があの有り様では、もう戻らぬかと」
「命があれば、商いは続く。おかげで、新しい風も読めそうだ」
魯適は周囲を憚りつつ、椅子に腰を下ろす。
「実は……太子・燕丹が戻ったのだ。咸陽から逃げるようにしてな」
「……」
呂明は目を伏せる。
趙嘉が茶を飲む手を止めた。
「秦王・嬴政と育った仲と聞きますが……」
「かつて、だ。だが今、王は激怒している。丹さまは宮中へも呼ばれず、郊外の離宮に幽閉同然だ」
「王と太子の間に何があったのですか?」
「それを知る者はいない。ただ――今の燕王には、かつての“信”など残っておらぬ」
燕王宮。
「王よ……太子が戻りました。面会をお許しに」
侍臣の声に、燕王喜は重々しく首を横に振った。
「……民の顔が見えぬ者に、何を語れる。あやつは咸陽で何を見て、何を得た。秦王の怒りを背負って戻ってきたのなら、それは国の災いだ」
老人の顔に深い皺が刻まれる。
「……私は、願っていたのだ。嬴政と丹が育ち合い、やがて国を繋ぐ絆になると……」
微かに震えたその声には、老王の悔恨が滲んでいた。
「だが夢など、すべて絵空事だった」
郊外の山荘。
呂明と趙嘉は、魯適の手引きにより、ついに燕丹と面会する。
丹は痩せこけ、目に陰りを宿していた。
「嬴政は、変わった……。昔はただ、静かで、誰の言葉にも耳を傾ける少年だった。だが、咸陽で見たあの目は……孤独の底で、世界に背を向ける者の目だった」
「ならば、なぜ戻った?」
呂明の問いに、丹は力なく笑う。
「私は彼のようにはなれぬ。“力”もなければ、“威”もない。だが、民を信じることはできる。燕が呑まれる前に……何かを残したくて、戻ったのだ」
趙嘉はその姿に、言葉を飲み込んだ。
かつての太子が持っていたはずの誇りが、今はただ、悔恨と信念の破片に変わっている。
翌朝、宮門。
「……王は、おまえを太子とは認めぬ」
燕王は、従者を通じて冷酷な言葉を告げた。
「おまえは我が顔を潰した。燕の名を背負って咸陽に渡り、今はそれを棄てて戻ったのだ。王族の名など……剥がれようと文句はあるまい」
燕丹は、その言葉を聞いてもなお、何も言わなかった。
ただ、微かにうなずき、踵を返す。
門の外には、呂明と趙嘉が待っていた。
魯適がひと巻きの地図を呂明に手渡した。
「斉へ向かうには、山路を越える必要がある。軍は動かぬが、目はある。気をつけろ」
呂明は頷きながら、蓟の空を見上げた。
「丹さまはこのまま、燕に残られるのでしょうか」
「……たぶん、そうだ。だが、あの目にはまだ、捨てきれぬ“火”がある」
趙嘉が呟いた。
「……どこへ行こうと、秦の影がある……」
呂明は静かに返した。
「それでも、“信”を運ぶ者の旅は続く。燕にも、秦にも、道を繋げるために」
そして三人を乗せた小さな商隊が、斉へと向けて蓟の街を出ていく。
北風の吹く中、旗がゆっくりと棚引いた。
その背に、まだ名もなき“時代の風”が、かすかに動いていた。
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