第百十二話 北風、裂けし都より
代の地──乾いた風が石畳を鳴らし、地平の彼方に雪混じりの雲が垂れ込めていた。
呂明は、童庵の新たな屋敷を見下ろす丘の上に立っていた。冬を前にして尚、交易路には荷車が並び、鍛冶の音と叫び声が、代に活気を与えていた。
「……ここを“風の根”とする。ここから、東へ風を送る」
呟くように言い、呂明はふと背後に視線を向ける。
「荷の積み込み、完了しました」
趙嘉が、粗末な従者服に身を包み、少し照れたように言った。かつて玉座に連なる者の面影は、すっかり町人に紛れている。
「王の血筋が、荷車を押す日が来るとはな」
呂明が苦笑し、趙嘉もようやく笑う。
「道を知るには、まず歩かねばなりませんから」
言葉の奥に、強い意思があった。都を追われ、命を狙われ、それでもこの男の瞳は消えていない。
呂明は、懐の書簡をそっと撫でた。李斯宛に宛てた文──趙の内情と、王子の安否を知らせる密書だ。
「秦はこれを読んで、何を思うだろうな」
呟きながら、空を見上げた。冬の陽が、曇天の隙間から一条だけ差していた。
──数日後、燕国・薊の外れにて。
商隊の一行は、凍える荒野を抜け、ようやく都の城壁が見えた。呂明は馬を降り、町の空気を嗅いだ。
冷たく乾いた風の中に、どこか張り詰めたような緊張が混じっている。
「燕もまた……“怯え”ている」
呂明の目が鋭くなる。
「秦と直接、国境は接しておらぬのに」
趙嘉が驚いたように言う。
「だからこそ、なおさら恐れているのだ」
呂明は低く続ける。
「次に“矛”が向くのはどこか──民も、王も、それを知っている。だが抗う術を持たぬ。信も、力も……いや、意志すらもだ」
薊王宮──燕王喜は、書簡を握り潰していた。
「……あやつ、戻ったのか」
声はかすれていた。
燕丹──咸陽で人質として送ったはずの息子が、秦から脱し、故国に帰還したという報告。
「何故だ……あやつが戻れば、秦を怒らせる。国を滅ぼす火種にもなり得る」
「しかし、王よ。丹様は……嬴政殿下の怒りを買って命を落とすところだったと」
侍臣の声に、燕王は目を閉じる。
かつて、嬴政と燕丹が語らっていた様を思い出す。あの若き秦王は、我が子にとって唯一の友であったはずだ。それが、なぜ──。
やがて目を開き、低く呟いた。
「……嬴政よ。お前は、あの子を“友”と思っていたのか」
一方、秦・咸陽。
李斯は密書を前に、目を細めた。
「趙嘉、存命──童庵の商人が保護。趙において政変あり。王、危篤──」
嬴政は沈黙のまま、呂明の筆跡を見つめていた。
呂明の報告には、政治的な策ではなく、ただ民と地の“温度”が書かれていた。趙の寒さ、代の風、王の病、そして──趙嘉の眼差し。
「……あいつは中立だな」
ぽつりと、嬴政が言った。
「利で動き、信で結ぶ。その姿勢は、あまりにも透けて見える」
「信じられる、ということですか?」
李斯の問いに、嬴政はわずかに目を細めた。
「──いや。信じられるからこそ、脅威になる。利と信を使い分ける者こそ、もっとも危うい」
その声は、微かに震えていた。
あの旅団の中に、かつての友──燕丹が戻ったという知らせが、まだ胸を刺していた。
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