第百十一話 代の灯火
北の空に、霞がかかっていた。
乾いた風が、草の根を撫でるように吹きすぎる。かつての趙北部、いまは国境の辺境。名もない谷を抜け、山道を越え、幾日もかけて彼らは辿り着いた。
呂明の隊商が止まる。ひと呼吸、皆が周囲を見渡した。
「……ここが“代”と呼ばれる地ですか」
趙嘉が馬上から、険しい山を仰いだ。かつては砦があった地も、今は焼け跡と廃屋だけが風に晒されている。
「城はないが、人はいる」
呂明が言った。
「童庵の者たちが、逃れてこの地に根を張ろうとしている。戦で家を失った者、李牧軍から落ち延びた兵、あるいは……国を持たぬ者たちだ」
数刻ののち、谷の奥――風よけの岩陰に建てられた仮設の屋敷で、焚き火を囲む場が設けられていた。粗末な帳と、焼き石で囲った囲炉裏の上で湯が沸く。
「……なぜ、私を助けたのです?」
静かに問うたのは趙嘉だった。炎が揺れる。呂明は返事をせず、茶碗に湯を注いだ。
「あなたにとって、私が得になることなど、何もない。李牧でも、張唐でもない、ただの“逃げ延びた王子”にすぎぬ私に――」
「血だよ」
呂明の声がそれを遮った。
「お前は“血”を継いでいる。血とは命であり、記憶であり、民にとっての物語だ。国が滅ぶとき、まず“血”が断たれる。だから……私は、お前を送った」
趙嘉は、しばし沈黙した。
「……お前が王になるかどうかは、知らぬ。ただ――灯を消してはならん。それが私の商いだ」
そのとき、屋敷の外で小さな声が上がった。童庵の部下が息を切らして入ってきた。
「使者です。……李牧将軍の密使と名乗っています」
火が、ぱちりと音を立てて爆ぜた。
⸻
「“代を動かすな”。それが、将軍の命です」
密使は黒ずくめのまま、炭の煙が立ちこめる屋敷の一隅に座していた。
「いま、李牧将軍は郭開の政を斜に構えつつも、あくまで従順を装っております。下手に動けば、兵権も、残った兵すら奪われる。まずは、火を灯すだけでよい」
「……“火”か」
呂明は眉をひそめた。
「代を拠点にすれば、いずれ追手が来る。郭開が見逃すはずもあるまい」
「それでも、将軍は“代に信を残せ”と。……趙の名を、捨てさせぬために」
呂明はやがて、静かに頷いた。
「わかった。ならばここを、童庵の北の枝とする。……戦をせぬまま、国を作る試みだ」
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夜。
外に篝火が灯された。折れた矢を薪にし、戦場に落ちていた兜に水を張って火を映す。流民の子らが輪になり、指を焚き火にかざす。
趙嘉は、その光景を遠巻きに見ていた。風が冷たく、肩をすくめる。
「……民とは、こんなに静かに、火に集うものなのか」
傍らで、呂明が呟いた。
「国が失われたからこそ、火が要る。奪われたからこそ、“心”を温めねばならんのだ」
趙嘉は頷いた。幼くも、どこか凛とした眼差しで。
「私は……王ではなくなったのかもしれない。だが、民と火の傍に立ち続けたい。たとえその火が、一筋の煙のようなものでも」
呂明はふと笑った。
「では、名を変えるか?」
「名を?」
「“王子”は名乗れぬ。“逃亡者”でもあるまい。“代”に来たのだから……“代の嘉”とでも」
趙嘉は思わず、笑った。
夜空に星が滲み、火が静かに揺れていた。




